方広寺 勅使門  場所の地図

 本山「方広寺」シリーズ第6号です。今日は、勅使門を紹介します。
 勅使門は、【平成23年10月4日(火):第170号】で紹介した本堂と、【平成23年12月4日(日):第231号】で紹介した半僧坊真殿の間にあります。勅使門前には、次のような案内文がありました。

 勅使門(ちょくしもん)
 この勅使門の奥に開山堂が建っています。開山無文元選(むもんげんせん)禅師は後醍醐天皇の皇子で延元4(1339)年に天皇が吉野で亡くなられるや、翌年、京都の建仁寺の普光庵で剃髪、出家し、雪村友梅(せっそんゆうばい)禅師について修行され、さらに三年後に中国に渡り、建寧府高仰山大覚寺の古梅正友(こばいしょうゆう)禅師のもとで七年間、大変なご修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒)をうけ正平5(1350)年に帰国されました。28歳のころであります。
 開山さまはその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、僧俗(僧侶と俗人)を接化(僧侶が俗人に仏教の心を教えること)され、建徳2(1371)年奥山朝藤(ともふじ)の請を容れて、この寺の開山となられました。開山さまの徳を慕って、ここで修行にはげむ雲衲(うんのう:修行僧)は常時五百人いたといい(境内の五百羅漢はそれを象徴したもの)、寺名を深奥山(しんのうざん)方広寺というのは禅師が曾て行脚された中国の天台山に、この境地が似ていたからといわれています。元中7(1390)年閏3月22日、当山で示寂(じじゃく:逝去)されました。
 開山さまの御廟(ごびょう)を黙霊塔(もくれいとう)といい、宮内庁の記録に”無文元選王廟(むもんげんせんおうびょう)”と記されています。光格天皇から”大慈普應禅師(だいじほうおうぜんじ)”、明治天皇から”聖鑑国師(しょうかんこくし)”、昭和天皇から”圓明大師(えんみょうだいし)”とそれぞれ勅諡(おくりな)されています。
 現在の開山堂は昭和10(1935)年、足利紫山老師が建立したもので、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、雲水たちの修行の場になっています。

≪平成23(2011)年9月10日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成23年12月23日(金):第250号】