設楽原の史跡B

 設楽原の戦いに関する史跡において「設楽原古戦場いろはかるた」の句標がない史跡の紹介bRです。

竹広激戦地  場所の地図
 東郷中学校の東側200mほどのところにあります。
 天正3(1575)年5月21日、連吾川をはさみ、織田、徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返しました。その最大の激戦地がこの「竹広」です。3千挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う参拝を喫し、武田勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていきました。

≪平成27(2015)年10月12日撮影≫

武田軍軍馬供養塔  場所の地図
 上記で紹介した竹広激戦地のすぐ側にあり、武田軍の軍馬を供養したものといわれています。

≪平成27(2015)年10月12日撮影≫

樋口兼周(かねちか)の墓  場所の地図
 新城市浅谷ちくにあります。
 武田の軍議で、「非戦」を進言した重臣の一人です。進言した重臣はすべて戦場で討死にしています。 

≪平成27(2015)年10月12日撮影≫

笠井肥後守満秀の墓  場所の地図
 笠井肥後の守が討ち死にした近く、新城市出沢・龍泉寺の境内にあります。
 笠井肥後守は、武田勝頼の馬が疲れたのを知ると自分の馬を勝頼に勧めて立ち退かせ、自らはこの地において徳川軍をくい止めて壮絶な討死をしました。

≪平成27(2015)年7月29日撮影≫

轡渕(くつわぶち)伝説  場所の地図
 新城市門谷地区にあります。
 400年間の話に、「ここ轡渕あたりから、夜になると「馬の轡」の音が聞こえてきたそうです。主を失った馬が渕に落ち、もがきながら轡を鳴らし、主に助けを求めているのだといわれています。」
 今の轡渕は、静かな清流になっています。ここで馬がもがき苦しんでいたのでしょうか?

伝説が記された看板 橋の上流 橋の下流
≪平成28(2016)年1月3日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年9月26日(火):第4532号】