田峯城内乱の首塚  場所の地図

 設楽町田峯地区から三都橋地区へ行く途中にあります。舗装道路の一角に石碑があり、その山側を5分ほどたどったところに首塚があります。
 石碑には次のように刻まれています。

 町指定・史跡
 三十数基の古石塔(一石五輪塔など)および、場所が指定の文化財です。この場所は長篠合戦直後、城主菅沼定忠に謀叛し翌4(1576)年、定忠の夜襲によって捕えられ処刑された、九十六人の首をさらした所といわれています。古石塔の最古は推定十六世紀末です。

 首塚の前の説明看板には、次の記述があります。

 城主菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部小輔)は天正3(1575)年長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守中の将である叔父菅沼定直と次席家老今泉道善(孫右衛門)等は城門を固く閉ざし開けようとせず、仕方なく勝頼を導き武節城に遁走した。その後飯田に逃れて一年を経過する。 翌、天正4(1576)年7月14日未明、菅沼定忠主従は自分の城である田峯城を急襲し前年の遺恨やるかた無く、老若男女幼少を問わず、手当り次第に96名を惨殺する。中でも首謀格の今泉道善(手習いの師匠)の生首を鋸で引き落とすという常軌を逸する殺害をおこなった。主だった者の首をこの作手街道の辻に晒した。いつの頃からかこの場所を首塚と呼ぶようになった。 現在、ここには五輪の塔等が20基あるが、それが誰のためのものであったか定かでない。石塔の型式上では戦国時代から江戸時代にかけてのものと思われる。

舗装道路の一角に或る石碑 田峯城内乱の首塚
≪令和5(2023)年8月25日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年8月29日(火):第4507号】