設楽原古戦場いろはかるたH

一重柵  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。東郷中学校から西へ200mのほどのところにあります。
 武田の騎馬隊を馬防柵で防ぎ止め、決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、弾正山を越えた大宮川沿いには、万一に備え家康本陣の背後に建設された一重柵の跡地です。 

遠景 近景1
近景2 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年7月29日撮影≫

織田信長戦地本陣跡・織田右府の歌碑  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。戦地本陣跡である茶臼山山頂からは、新しく開通する新東名高速道路の「新城SA」のすぐ南側にあります。この戦地本陣跡から、下りの「長篠設楽原PA」のを見下ろすことができます。車で行く場合は、狭い道ですが、茶臼山公園まで車で入ることができます。その公園から歩いて100mほど北へ斜面を登ると茶臼山山頂です。私が訪れたときは、公園から山頂までの道路整備工事が行われていました。新東名高速道路が開通する平成28年2月までには、きれいな公園道路として整備されることでしょう。

 茶臼山公園には次の説明があります。

 当地点は標高134.5mのちにあります。天正3(1575)年5月長篠の役設楽原決戦の時、織田信長の戦地本陣となった所であり、全国でも珍しい信長の歌碑があります。

 茶臼山山頂には、次の説明があります。

 大正3(1575)年、長篠の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて、上平井の極楽寺で軍議をひらき、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練りました。そして自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとりました。このすぐ北側には、側近、木下秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置しました。布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しています。
 ここには、珍しい信長の歌碑があります。右府とは右大臣のことで、天下の政務を司る職です。天正5(1577)年から天正6年までの信長の官位です。
  「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
         昭和57(1982)年3月30日 新城市教育委員会

茶臼山公園 茶臼山公園から山頂までの整備中の道路 茶臼山山頂の信長戦地本陣
信長の歌碑 設楽原古戦場いろはかるた 工事中の新東名高速「長篠設楽原PA」
≪平成27(2015)年11月20日撮影≫

首洗池  場所の地図

 「設楽原歴史資料館」から南へ500m、国道151号線沿いにあります。池の前に次の説明看板がありました。

 長篠の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったという。
 このような地名が残ったのは、戦いがいかに壮絶であったかを想像させる。
  昭和57(1982)年3月30日 新城市教育委員会

 現在の池のまわりは、きれいに整備され公園になっています。休憩用のベンチが用意され、市民の憩いの場になっています。また、近くに戦死者を慰霊する地蔵も建てられています。

公園として整備されている首洗池 戦死者を慰霊する地蔵 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成25(2013)年3月1日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年8月6日(日):第4484号】