設楽原古戦場いろはかるたG

鈴木金七生誕の地  場所の地図

 長篠城から援軍の依頼をしに岡崎城へ向かい、援軍が来ることを伝えて磔死した鳥居強右衛門の話は有名です。実は、援軍の依頼に向かったのは、鳥居強右衛門一人という説と、鈴木金七(きんしち)の二人で向かった説があります。また、金七は第二の使者であったという説もあります。
 鈴木金七について、古戦場いろはかるたの下に次のように説明されています。

 鈴木金七(金七郎重政)
 新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自。天正3(1575)年5月18日(陽暦7月)長篠城から敵の重囲を破り、城将奥平貞昌の「城兵は意気軒昂たり、決戦を急ぎ給うな。」の言を徳川本陣に伝え、これが連合軍の勝機につながったという。
 後、父祖の地作手亀山城主となった松平忠明は、作手村田代に帰農していた金七をたずね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。

遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年3月15日撮影≫

小屋久保(こやんくぼ)  場所の地図

 数多くの史跡は、設楽原や長篠に固まっていますが、ここ小屋久保は、やや離れた山の中にあります。
 小屋久保へは、花の木公園を北へ200mほど行った所から西に入る林道を、どんどん進みます。林道は、車1台が充分とおることができる舗装道路で、運転に不安はありません。途中に不動院がありますが、それを通りこしひたすら走ります。つづらおりの道路を4kmほどすすむと、「設楽原古戦場いろはかるた」が見えてきます。さらに800mほどすすむと、小屋久保への登り口の案内があります。登り口の先に車を駐車できる空き地があります。その登り口から坂道を登ります。途中に何ヶ所か案内矢印があり道に迷うことはありません。約20分ほどで、小屋久保の史跡に到着します。
 史跡には、次の説明があります。

 ここは、天正3(1575)年5月「設楽原の戦い」に際して、戦場となった地域に住む人々が避難していた場所です。「小屋久保」と呼ばれるこの一帯は、外部から遮蔽されていて潜むのに都合がよいとともに、長篠城から設楽原を一望に収められた高みもあります。それに、生活のための水も豊かで、広さにゆとりがあり、家畜ともどもの避難にふさわしい所です。今でも、当時の人々の暮らしを偲ばせる茶碗などのかけらがみつかることがあります。

 小屋久保を下山し、さらに林道を先にすすむと、小屋久保への登り口があと2ヶ所ありました。

いろはかるた遠景 設楽原古戦場いろはかるた 小屋久保への登り口
小屋久保への案内がいくつも 小屋久保遠景 小屋久保の石標と案内看板
≪平成27(2015)年12月1日撮影≫

瀧川助義・笠井肥後・相討ノ地・橋詰さんばし跡  場所の地図

 新城市出沢(すざわ)地区に「花の木公園」があります。公園という名前がついていますが、公園ではなく旅館を含めた民間施設です。名前は、戦前、同地を公園にしようと開発していた前経営者が、金沢の兼六園からハナノキの苗を取り寄せて植えたことに由来するそうです。昭和41(1966)年5月、現在の花の木公園経営者がその名前を引き継ぎ、養殖の釣り堀を開業し、現在、旅館・食堂・釣り堀を営業しています。
 この花の木公園の中には、設楽が原の戦いの遺跡があり、戦いのモニュメントも園内にあります。そして、次の説明看板が建っています。

 天正3(1575)年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は、主君に自分の乗馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組み討ち、差し違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋(さんばし)の地である。
                         昭和62(1987)年7月9日 設楽原をまもる会

「橋詰 さんばし跡」の石標近景 「橋詰 さんばし跡」の石標遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成26(2014)年8月6日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月31日(月):第4478号】