設楽原古戦場いろはかるたF

土屋右衛門尉昌次戦死之地  場所の地図

 再現された馬防柵の中に、「土屋右衛門尉昌次戦死之地」の記念碑があります。
 土屋昌次は、武田軍の武将で、馬防柵に攻めあぐんでいたとき、突破口を開くために単騎で乗り込み、鉄砲隊の集中攻撃を受けて落命しました。31歳の若さだったということです。

馬防柵の看板 「土屋昌次戦死之地」の石碑 土屋昌次に関するいろはかるた
≪平成23(2011)年9月2日撮影≫

勝楽寺戦没者慰霊場  場所の地図

 新城市川路地区は「設楽原の戦い」の激戦地です。その激戦地であった一角に曹洞宗の寺院である聖堂山勝楽寺があります。当然、「設楽原の戦い」とゆかりのある寺院で、寺院の入り口には、「設楽原戦没者霊場」の石標が建っています。「勝楽寺」という寺号は、古くは松楽寺と称していたそうですが、長篠の戦いが終わった天正3(1575)年5月22日に織田信長と徳川家康が当寺に立ち寄り、戦勝の祝杯を上げ、勝ち戦とあって寺号「松」の一字を「勝」に改めたとのことです。勝楽寺の北側国道沿いに、「ねんごろに まつりたやさぬ 勝楽寺」の設楽原古戦場いろはかるたが建っています。

勝楽寺と設楽原戦没者霊場の石標 山門
本堂 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成26(2014)年12月19日撮影≫

天王山陣所・武田勝頼公指揮の地  場所の地図

 設楽原歴史資料館から北へ200mのところ、市立東郷中こども園のすぐ北側にあります。
 
 設楽原の戦いにおいて、内藤昌豊の本陣があった所で、武田勝頼が戦中に自らここへ陣を移し、昌豊と共に指揮をとったところといわれています。
 築山の左側に、3つ史跡があります。最初は、内藤昌豊の墓です。内藤昌豊は武田24将の一人で、ここ天王山に陣を張り、1500の兵を率いてで織田・徳川連合軍と激戦を繰り返すましたが、その後武田方は劣勢となり、最後はここで戦死しました。
 次に、「横田備中守綱松の墓」です。横田綱松は、親子4人で出陣し、全員がこの設楽原で討死にし悲運の戦士です。長男は三方原の戦いで戦死し、残された五男が、有海に父の塚を立てた跡があるとのことです。
 最後は、「武田勝頼公指揮の地」の石碑です。この石碑は、平成5年に、勝頼の故郷である山梨県東山梨郡大和村の「武田勝頼公顕彰会」が建立したものです。

「内藤昌豊の墓」遠景 「内藤昌豊の墓」遠景 右側「馬場美濃守信房之墓」
横田備中守綱松の墓 「武田勝頼公指揮の地」遠景 「武田勝頼公指揮の地」石碑近景
≪平成27(2015)年2月28日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月27日(木):第4474号】