設楽原古戦場いろはかるたE

大宮前激戦地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。「丸山攻防戦跡」から南へ100mほど東南方向のところにあります。
 大宮前激戦地は長篠・設楽原合戦の北側の主戦場で、武田軍右翼と織田軍の激戦地になったところといわれています。

 長篠合戦と呼ばれてきたこの戦いが「戦国の流れを変えた」とされるのは、二つの理由(事情)からです。一つは、長篠城救援の信長軍が設楽原で足を止め、圧倒的多数の火縄銃で相手に大打撃をあたえたからです。もう一つは、その相手が東国の旗頭「武田軍」であったからです。「風林火山」の旗印と「武田軍の騎馬」は近隣諸国にとって脅威の印でした。武田の騎馬隊といっても、武田軍の大半は騎馬には乗っていません。同様に、鉄炮が三千挺であったかどうかも確かなことはわかっていません。ただ、信長軍が多くの鉄炮を用意し、鉄炮で勝利したことは確かです。

 石標には、「大宮前激戦地」と書かれています。

大宮前激戦地の跡 「大宮前激戦地」の石標 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年4月23日撮影≫

馬防柵左端  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。織田軍の最左翼の場所でここまで馬防柵がつくられたといわれるところです。

遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年3月15日撮影≫

天王山陣所・武田勝頼公指揮の地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。設楽原歴史資料館から北へ200mのところ、市立東郷中こども園のすぐ北側にあります。
 
 設楽原の戦いにおいて、内藤昌豊の本陣があった所で、武田勝頼が戦中に自らここへ陣を移し、昌豊と共に指揮をとったところといわれています。
 大きな築山があり、その前に、牧野文斎氏に関する古戦場いろはかるたがたっています。牧野氏は、明治元(1868)年生まれで、私立信玄病院初代院長として医業の傍ら、長篠・設楽原古戦場の史蹟保存の活動を進めてこられた地元の名士です。

築山全景 築山内にある石碑 牧野文斎氏に関する古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年2月28日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月22日(土):第4469号】