設楽原古戦場いろはかるたC

柳田前激戦地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。
 「甘利信康の碑」から西へ100mのところに記念碑が建ち、「ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川」の「設楽原古戦場いろはかるた」があります。
 設楽ヶ原の戦いにおいて、武田軍と織田・徳川連合軍の最前線の間に流れていたのが連吾川です。その連吾川にかかっている橋のふもとが柳田前激戦地で、武田軍と織田・徳川連合軍が激戦を繰り広げた所です。また、生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所でもあります。
 合戦当時連吾川周辺は水田や泥深い沼田であり、既に田植えが終わっており一面は水がたたえられていました。武田軍の陣地から坂を降ってきて織田・徳川連合軍の陣地に向って突進していく途中、馬も人もこのぬかるみに足をとられてしまい、敵の鉄砲隊の格好の餌食になってしまったのでしょう。

 現在の連吾川は、水量の少ない小川で、当時の面影はありません。その連吾川にかかる柳田橋の欄干は、当時の戦いをしのぶモニュメントにあふれていました。

柳田前激戦地 柳田前激戦地の石碑
設楽原古戦場いろはかるた
連吾川にかかる柳田橋欄干のモニュメント
≪平成27(2015)年1月24日撮影≫

高坂源五郎昌澄の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。「勝楽寺」から東へ1kmほどのところにあります。

 墓の前に次の説明文があります。

 高坂(こうさか)源五郎昌澄(まさずみ)は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣(こうさか だんじょうのじょう まさのぶ)の子として、山梨県甲府に生まれ、設楽原の戦いには、25才の若さで、兵二千を率いる大将として戦いました。
 昌澄は、始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていましたが、勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川本陣をめがけて斬り込みましたが、徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いでここで敗れました。稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったといいます。
   平成12(2000)年4月1日  設楽原をまもる会

 ここには、「設楽原古戦場いろはかるた」の句標には、2句あります。「ゆ」の句は、昌澄のことを詠んでいますが、「る」の句は、昌澄の父である高坂昌宣のことを読んでいます。父である高坂昌宣は、設楽原の戦いには留守役として川中島の海津城にいて出陣していません。武田軍の敗北を知った昌宣は、傷ついた武田軍の姿を整え、甲府に帰陣させたといわれています。故里へ帰ることなくこの地に倒れた息子への、せめてもの報告のためにここに「る」の句が設楽原をまもる会の手によってたてられました。

高坂昌澄の墓全景 高坂昌澄の墓アップ 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年4月26日撮影≫

甘利郷左衛門信康の碑  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。
 設楽原歴史資料館の西側200m、資料館へ入る道路の片隅に建っています。
 甘利郷左衛門信康は、長篠・設楽ヶ原の戦いでは、山県昌景らと共に左翼隊に属し徳川軍に対しました。勝楽寺前 から竹広表へと奮戦して、中央隊とも力を合せて第3の柵をも破る勢いであったが、武田軍が総崩れになると、天王山までじりじりと押し戻され、天王山のふもとダンドウ屋敷付近に踏みとどまりましたが、時すでに遅し総退却となりました。目の前の連吾川沿いには、深い堀と長い柵が続いていて、「この堀と柵がなかったら、家康の本陣も突き崩すことができたのに」と、立ったまま無念の切腹をしたといいます。 

≪平成27(2015)年1月24日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月16日(日):第4463号】