設楽原古戦場いろはかるた@

 徳川家康本陣跡  場所の地図

 東郷中学校の北西側すぐのところに、八剱神社があり、そこが家康の本陣跡地です。神社前に次の説明看板があります。

 天正3(1575)年5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するために家康は織田信長とともに設楽原に出陣した。家康は、この八剱山に本陣をおき、これより東約300m(東郷中学校の向こう側)を南北に流れる連吾川をはさんで、武田軍を迎え撃った。この地は、まさに最前線である。ここに家康が本陣を構え、多大な犠牲を払って戦ったのは、信長に援軍を頼んだいきさつがあったからだと思われる。この東北400mの地点に「家康物見塚」と呼ばれる所がある。そこは、家康が陣頭指揮をしたところである。

八剱山全景 家康本陣跡の石標 設楽原古戦場いろはかるた

名高田前激戦地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。武田軍右翼に陣した馬場信房、土屋昌次らと、織田軍最左翼の軍が激戦を交えた場所といわれています。馬場信春、土屋昌次ら武田軍老将の言を武田勝頼が聞き入れなかったために、武田軍は。徳川・織田連合軍にいどみ、敗走することになりました。
 現在は、新東名高速道路の橋桁ができ、景色を一変させました。この景色を見ると老将は何を感じるのでしょうか。

遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年2月28日撮影≫

羽柴秀吉陣地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。東郷中学校から北へ2kmほどのところにあります。
 織田軍が設楽原へ布陣したとき、秀吉は牛倉の高台の一つに陣をしきました。織田信長戦地本陣の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えていました。
 設楽原の戦いの時、秀吉は39才で、この戦いの前年、木下藤吉郎から羽柴筑前守に改めています。
 秀吉が布陣したとされる一帯を、土地の人々は「はたぼこ」と呼び、四百余年前のできごとを今に伝えています。

遠景 陣地を示す石碑 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年8月24日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年6月29日(木):第4446号】