岩瀬忠震(いわせただなり) 場所の地図
設楽原歴史資料館の玄関前に、岩瀬忠震の銅像が建っています。また、資料館の展示にも岩瀬忠震のコーナーがあります。
岩瀬忠震とはどういう人物でしょうか。愛知エースネットには、つぎのような記述がありました。
岩瀬忠震は現在の新城市東郷地区を拠点とした1400石の旗本、設楽家の3男として生まれた。母は大学頭をつとめる林家の娘である。23才の時、同じ三河の旗本書院番であった岩瀬家の養嗣子となり、その長女と結婚した。その後、江戸の昌平坂学問所で学び幕府の役人採用の試験に合格し、幕吏となる。嘉永8(1853)年、黒船で来航すると老中に登用され、対外交渉に当たる。特にアメリカ領事と交渉して日米修好通商条約に調印し、その後も外国奉行として、オランダやフランスなどと安政の五カ国条約をすべての調印者となった。しかし、13代将軍の継嗣問題で大老・井伊直弼の怒りを買い、安政の大獄で免職させられた。その後、江戸向島に幽居したが、文久元(1861)年に44歳で病死した。
≪令和5(2023)年6月22日撮影≫ |
釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年6月25日(日):第4442号】