幸田・本光寺②  場所の地図

 別名「あじさい寺」といわれる、幸田町にある本光寺ですが、歴史的に由緒ある寺院で、島原藩主深溝松平家墓所が国史跡に指定されています。
 松平家墓所に関する説明が、幸田町のHPに次のようにありました。
 島原藩主深溝松平家墓所は幸田町南部の深溝地域、その東側に広がる山間部に位置する瑞雲山本光寺に所在する。瑞雲山本光寺は15世紀初頭に深溝の地に深溝松平家の菩提寺として創建された寺院である。
 深溝松平家は、江戸時代に十八松平家と称された戦国時代の松平氏の一家で、深溝を領地としたことからこのように称された。四代まで深溝を領地とするが、関東に移封する。その後、五代が深溝西郡藩主として深溝を領地とするが、後に三河吉田藩主として移封され、六代の時代に三河刈谷藩主・丹後福知山藩主を歴任した後、肥前島原藩主(長崎県島原市)となり幕末を迎える。
 江戸時代の大名は、死後墓所を江戸及び領地に造ることが一般的であるが、深溝松平家は、幸田町深溝に所在する瑞雲山本光寺を歴代当主の遺体を納める菩提寺とし、五代から十九代までの当主を、死没地に関わりなく、深溝の地まで運び埋葬するという特殊な方法を継承している。境内地に造られた墓所は西廟所(にしびょうしょ)と東廟所(ひがしびょうしょ)の2ヶ所に分かれ、西廟所には初代から四代までと、五代・十一代が葬られており、東廟所には島原藩主となって以降の六代から十九代までの当主と六代正室が葬られている。このうち、初代から五代を除くすべての墓標が、同じ神殿型墓石となっている。これは六代の神道への傾倒の影響によると考えられ、以後神道の思考に基づく墓所形態や埋葬方法が受け継がれており、江戸時代の大名の葬送儀礼を考えていく上で重要な資料である。
 また、西廟所の近くに、寛文12(1672)年に建立された、参拝者の願いを聞きかなえるための「願掛け亀」があります。大きな耳がついており、亀のエリ首(ヘコミ)にサイ銭が入ると願いがかなえられ、万年幸せとなるといわれています。

初代~4代までの西廟所
   
第11代廟所(西廟所)
東廟所の門 6代から19代までの同じ形の墓が並ぶ
願掛け亀
  ≪令和5(2023)年6月8日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年6月17日(土):第4434号】