豊川・岩略寺城跡 場所の地図
豊川市にある岩略寺城跡は、名鉄名古屋本線名電長沢駅から南方向へ1kmほどの所にあり、車で近くの駐車場まで行けるはずだったのですが、倒木のため車の走行は途中でリタイア、安全な所に車を駐車し、徒歩で近道という表示に従って城趾をめざしました。この近道がくせもので、急斜面の難路、なんとか20分ほどかかり城趾に到着しました。帰りは、車の通ることができる道をおりてきました。
岩略寺城趾については、豊川市観光協会のHPに次のような説明がありました。
駐車場は城の堀切跡で、そこから少し登った山頂の平坦部が主郭である。南北35m、東西26mほどあり、その西と南にL字形の大きな士塁が築かれている。ここからは東西を見通すことができ(現在は木があるため見通せない)、東西三河の境目の山城として戦略的に重要な城であったことが分かる。主郭の虎口は北西角の一箇所で、その北側には12万uほどの平坦地があり、前を通る敵を側面から攻撃できる備えとなっている。主郭の周囲にはいくつかの腰曲輪が設けられており、西側の―つには南に土塁を備える曲輪がみられ、その下には城道を兼ねた空堀がある。主郭の北側にも小規模な土塁を備える曲輪がみられ、その下方に三日月状の空堀がある。さらに主郭の北・北東・南東にのびる三本の尾根筋にも曲輪がみられる。東三河では規模の大きい城跡であるが、その構造は三河の城郭の中で最も発達した時期のものではなく、それよりやや古い姿を留めていると考えられる。なお、岩略寺城跡には井戸跡と伝えられる竪穴が5箇所ある。東三河の主要な城郭にはこのような遺構がみられることが多いが、その中でも数が多い。井戸としての機能を疑問視する考えもあるが、東三河の城郭の特徴ある遺構の一つである。
岩略寺城は、戦国時代における長沢松平の地の重要な城であったことは言うまでもないが、いつ誰が築城したのかなど、その歴史についてはよく分かっいない。その分、往時の状況を良く残すこの城跡を訪れると、戦国ロマンにかりたてられる。
≪令和5(2023)年5月20日撮影≫ |
釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年6月6日(火):第4423号】