東海道と鎌倉街道めぐりF

19 鎌倉街道及び花の瀧伝承地  場所の地図

  鎌倉街道は、古代の官道をもとに鎌倉と京都とを結ぶ道です。「鎌倉街道」という言葉は、鎌倉時代から呼ばれていた名称ではなく、江戸時代になってから「昔鎌倉へ向かう道」として呼ばれるようになったものです。安城市内では、街道が通っていたとされるところは、中世の記録を手がかりに、宿駅八橋(知立市)から矢作川渡方面に向かう道の里町から山崎町に至るまで、8.5kmと推測されます。現在は、里町不乗森神社の北側に30m、尾崎町熊野神社の西側に60m程、その面影を残しています。
 また鎌倉街道沿いにあった菖蒲池地内の花の瀧は、寛文6(1666)年の「名所方角鈔」に記されていて八橋八景の一つでした。江戸時代の中期以降、三河地方の地誌には、《風わたる 花をみかはの 八橋の くもでにかかる 滝のしらいと》が花の瀧を詠んだ歌として伝承されています。

≪令和4(2022)年11月7日撮影≫

20 慈光寺遺跡の碑  場所の地図

 慈光寺は、もともと青野(岡崎市下青野町)にある、浄土真宗本願寺派の三河七か寺の一つに数えられる有力な寺院でした。しかし、 永禄6(1553)年、同7年の三河一向一揆でにおいて他のの有力寺院とともに追放され、ここより北の八幡山に移りました。
 天正13(1585)年には七か寺の追放が解かれ、三河に帰還が許されました。慈光寺は許されたとはいえ、すぐに青野に戻らず、天正18(1590)年になって移転したと伝えられます。

≪令和4(2022)年11月7日撮影≫

21 濱碇之碑  場所の地図

 里町中野池には、明治時代に活躍したこの地出身の力士、濱碇をたたえる石像があります。彼は、巡業中の負傷がもとで明治16(1883)年に廃業しました。引退後は薬の行商をするかたわら、地方の相撲興行や大相撲の地方巡業の世話方として活躍しました。周辺には濱碇が恩人のためにたてた石碑や灯籠も残されています。濱碇については、【令和4年1月23日(金):第3934号】に既にUPしてあります。

≪令和4(2022)年11月7日撮影≫

22 タブノキ  場所の地図

 里町西野の野々山家は、初代がこの地に移住したのが延宝2(1674)年のころでした。その庭に植えられたと伝えられるこのタブノキは、周囲3mにおよび、市指定保護樹木となっています。 

≪令和4(2022)年11月7日撮影≫

 このシリーズ最終回です。

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年1月26日(木):第4294号】