安城・歴史の散歩道〜丈山、弥厚の里めぐり〜

 安城市教育委員会から出ている「歴史の散歩道」シリーズの2種類めです。
 「丈山、弥厚の里めぐり」というリーフレットに記載されているポイントは、全18箇所です。次回以降、このポイントを順次紹介します。
 石川丈山と続き弥厚は、安城市を代表する偉人です。彼らの経歴を次に示します。
 石川丈山は、天正11(1583)年、三河国碧海郡泉郷(現在の安城市和泉町)に生まれました。石川家は、丈山の曾祖父の代から松平家(後の徳川家)に仕えてきました。丈山は、幼い頃から武芸に秀で、豪勇さで知られる三河武士の中でも際立った存在でした。16歳のとき徳川家に仕え、33歳の大坂夏の陣で先駆け禁止の軍令を犯した責をとり、蟄居し、武士を辞めてしまいます。その後の丈山は、儒学者藤原惺窩に強く感化され、寛永18(1641)年59歳で、京都洛北一乗寺に詩仙堂を開きます。風雅を楽しみ、詩作に遊ぶ悠々自適の文人として生涯をここで送り、望郷の念を抱きながら、90歳の天寿を全うしました。丈山は、江戸時代初期を代表する漢詩人であり、隷書を初めて取り入れた書家としても知られるほか、作庭家でもあり、煎茶(文人茶)では、日本の開祖といわれ、現在においても文人として高く評価されています。
 都築弥厚は、明和2(1765)年、和泉村(現在の安城市和泉町)に生まれました。当時、安城市域の多くでは、水が乏しく水田開発が困難でした。そこで弥厚は、矢作川の上流から水を引き、ここに潅漑、開墾することを思い立ちます。彼は石川喜平とともに水路の測量を行い、具体的な用水計画を立案します。 しかし、農民や領主たちからの激しい反対にあい、計画を実現できぬまま亡くなってしまいます。弥厚の計画は、明治時代になり、岡本兵松らに引き継ぎます。そして、明治13(1880)年には現在の明治用水ができ、弥厚の夢がようやく実を結ぶのです。その後安城は、日本デンマークと呼ばれる豊かな農業地域へと、変貌を遂げていくことになります。


釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和4年8月26日(金):第4149号】