岡崎市にある東公園は、憩いの公園として市民に愛されています。公園内には、すでに紹介した花しょうぶ園や動物園
【第66号】や恐竜広場
【第3666号】の他にも見所がいっぱいあります。園内には、くまなく散歩道が整備されており、歴史的な遺産も数多くあります。それらを順番に見ていきましょう。
東公園散策の1回目は、鋼鉄父・高村光太郎博士に関する遺跡です。説明板に次の解説があります。
鋼鉄の父 本多光太郎博士 つとめてやむな
この一語は博士が母校の子どもたちに贈ったことばである。
博士は恩師長岡半太郎先生の「秀才であることより、努力家であることが大切だ」との教えを実践された人である。
明治3(1870)年2月23日岡崎市新堀町字大庭において、農家の三男として生まれる。
明治10年桑子小学校に入学、同14年隋念寺の高等小学校に進学するも学校嫌いで成績も悪かった。後、寺田松次郎先生の私塾に学び、その薫陶を受けて向学の志を立てた。
明治20年17才の時上京、同27年東京帝国大学理科大学物理学科に入学、地球物理学・磁気学等を専攻、研究に終始した。
明治40年独英に留学、物理学の研究に没頭し努力と頑張りの4年間を過ごす。帰国後東北帝国大学理科大学の教授となる。
大正5年理科大学理化学研究所主任となり、KS磁石鋼を発明、同年鉄に関する研究により帝国学士院賞を授与される。
昭和6年東北帝国大学総長となり、同3年KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明、「鋼鉄の父」とうたわれる。
昭和12年第一回文化勲章を授与され、26年文化功労者に選ばれる。
昭和29(1954)年2月12日84才で逝去、文字通り「研学修道」の一生を終えられ、勲一等旭日大綬章を賜わる。
昭和36年7月1日郷土が生んだ世界的物理学者として博士の偉業を讃え、岡崎市名誉市民に推挙される。
資料館の隣に記念碑があります。記念碑前に次の説明文があります。
この記念碑は、本多光太郎博士の勉強部屋を新堀町の生家から、ここ東公園に移築したことに合わせ、同博士の偉業を顕彰しようと、昭和45年2月に建立されたものです。
碑文は、博士の信条であった「つとめてやむな」の直筆を、高さ1.9m、幅2.1mの自然石に彫ったものです。