岡崎・桜城橋④ 場所の地図
桜城橋(さくらのしろばし)から籠田公園に続く道路の整備が完了し、東岡崎駅から籠田公園までの遊歩道が完成しました。「QURUWA」の完成です。「QURUWA」とは、東岡崎駅、桜城橋、籠田公園、りぶら(図書館交流プラザ)、岡崎公園などの拠点を結ぶまちの主要回遊動線。この動線が「Q」の字に見えること、かつての岡崎城跡の「総曲輪(そうぐるわ)」と重なることから「QURUWA」と名付けられました。
桜城橋の北側には、すでに紹介しました徳川四天王のうちの二人、「本多忠勝」と「酒井忠次」の石像があります。その北側に、残りの二人、「榊原康政」と「井伊直政」の石像が完成しました。本日は、榊原康政の紹介です。
徳川家康より6歳年下、同じ徳川四天王の本多忠勝とは同い年。
家康は同盟していた織田信長の死により、頭角を現した家臣・羽柴秀吉と対立。1584年、小牧・長久手の戦い(現在の愛知県小牧市・長久手市ほか)に至る。
この時、37歳の康政は、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉を非難する檄文を書いた。秀吉はこれに激怒し、康政の首を獲った者には褒美を与えるという触れを出したという。豊臣軍は、徳川軍の巧妙な戦術により長久手で大敗を喫している。
この姿は、檄文を突きつけた冷静な康政の姿を再現したもの。
檄文には、次のように
それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
しかるに,信長公の寵愛を受けて将帥にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道、黙視するにあたわず、わが主君
源家康公は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして蹶起せり。
≪令和3(2021)年4月20日撮影≫ |
釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和3年5月1日(土):第3667号】