平成27年涅槃会ー涅槃図解説
本日は、旧暦2月15日、お釈迦様が亡くなられた日の涅槃会です。涅槃図を掛け、その前に祭壇が設けられます。今回は、涅槃図に描かれている内容の解説をしたいと思います(HP参照)。すでに涅槃会については、平成24年は、3月7日(水)の【第325号】、平成25年は、3月26日(火)の【第709号】、平成26年は、3月15日の【第1063号】で紹介していますので参照してください。
涅槃図とは、お釈迦様が入滅(お亡くなりになる事)した時の様子を描いたものです。お釈迦様が入滅されたことを「涅槃に入る」ということから、この絵を涅槃図といいます。多くの寺院が、入滅したとされる旧暦2月15日に涅槃図を飾り、お釈迦様を偲ぶ法要である涅槃会を執り行います。涅槃会は、少なくとも奈良時代には営まれていたとされています。日本最古の涅槃図は高野山金剛峯寺が所蔵しており、時代背景や人々の願いを反映させ、さまぎまな構図を表しながら全国へと広まりました。涅槃図はお釈迦様の入滅という悲しみの中にも、仏教画としての荘厳さを保たなければなりません。さらには、命の終焉を描くと共に、教えの永劫性を表現することが求められます。このような、一見すると矛盾する課題を仏教の教えに沿って一枚の絵の中に凝縮させたものが涅槃図です。お釈迦様のお姿は、仏教徒の理想の姿として描かれてきました。涅槃図もまた、理想の死の在り方が示されています。涅槃図を読み解くことは自分自身の死の在り方を考えることであり、死を見つめることは今を生きることを見つめ直すことでもあります。
1 沙羅双樹(さらそうじゅ)
お釈迦様の周りをかこんでいるのは、沙羅双樹の木で、日本においては夏椿とされています。向かって右側の4本【写真A】は、白く枯れています。これは、お釈迦様が入滅されたことを人間や動物だけではなく、植物も悲しんでいることを示しています。一方、左側の4本【写真@】は、青々と葉を広げ花を咲かせています。お釈迦様が入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しています。
葬儀の際、祭壇に飾られる四華は、この沙羅双樹の故事が元になっています。
写真@ 左側の沙羅双樹 | 写真A 右側の沙羅双樹 |
2 阿那律尊者(あなりつそんじゃ)【写真B】
摩耶夫人を先導している人が、阿那律尊者です。阿那律尊者は、お釈迦様の十大弟子の一人として、語り継がれています。お釈迦様の説法中に居眠りをしてしまったことを恥じて、「絶対に寝ない」という誓いを立てます。結果、視力を失ってしまいますが、そのことがかえって智慧の目を開くきっかけとなりました。十大弟子にはそれぞれ異名が付されており、阿那律尊者は「天眼第一」の異名をもっています。
3 摩耶夫人(まやふじん)【写真B】
図の右上に描かれているのがお釈迦様の生母、摩耶夫人です。摩耶夫人は、お釈迦様の生後7日目に亡くなったと伝えられています。摩耶夫人は、今まさに涅槃に入ろうとしているお釈迦様に長寿の薬を与え、もっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いからやって来ました。
4 薬袋【写真C】
お釈迦様の枕元にある木にかかって描かれている赤い袋が薬袋です。摩耶夫人がお釈迦様のために投じたものです。「投薬」という言葉はこの故事が起源になったといわれています。この薬は、摩耶夫人の願いもむなしく、お釈迦様に届く前に木に引っかかってしまいました。
なおこの袋の背後に錫杖が描かれていることから、当時の僧侶が許されていた最低限の持ち物(三つのお袈裟と一つの器)をいれたものであるともいわれています。
写真B 阿那律尊者と摩耶夫人 | 写真C 薬袋 |
5 阿難尊者(あなんそんじゃ)【写真D】
お釈迦様の前で、悲しみのあまり卒倒している人物が、十大弟子の一人、阿難尊者です。長くお釈迦様の身近でそのお世話をした方で、最も多く教えを聞いた人物であることから、「多聞第一」の異名を持ちます。容姿端麗な人として模写されることが多く、涅槃図においてもいかに阿難尊者を美男子に描くかが、絵師の腕の見せ所でもあります。
6 阿ぬ楼駄尊者(あぬるだそんじゃ)【写真D】 ※「ぬ」は、冠が「少」、脚が「免」で構成される漢字ですが表現できないため「ぬ」で代用しました。
倒れた阿難尊者を介抱しているのが、十大弟子の一人、阿ぬ楼駄尊者です。実はこの阿ぬ楼駄尊者は、阿那律尊者と同一人物です。多くの弟子たちが悲しみに暮れる中、阿那津尊者だけはお釈迦様の入滅の意味をよく理解され、当惑する人々にその死を伝えました。お釈迦様の葬儀を営んだ際の中心的存在であったとも伝えられています。仏伝においては、お釈迦様とその教えを聞く人々との間を繋ぐ重要な人物として描かれています。
7 純陀(じゅんだ)【写真E】
集まって来ている人々の中で、唯一、供物を持っている人が純陀です。お釈迦様はこの純陀から受けた食事が元で亡くなったと伝えられており、一説には、食材の中に入っていた茸による食中毒であったとされています。容態が悪化するお釈迦様を見た阿難尊者は、純陀の食事を受けるべきではなかった、と嘆きます。しかし、お釈迦様は、「私は純陀の食事によって寿命を迎えることができた。臨終の前に食事を捧げることは最も尊い行いなのだ」と諭しました。この言葉には、純陀を思いやる慈しみの心と、死は厭うべきではないという仏教の教えが表現されています。
8 お釈迦様に触れる老女【写真F】
多くの人々の中で唯一お釈迦様のお体に触れている人物がいます。お釈迦様に乳粥を施したスジャータ、または、お釈迦様の教えを聞こうと訪れたが時すでに遅く、悲しみに暮れる老女など、諸説存在します。鎌倉時代の構図の中には、お釈迦様と阿難尊者、そしてこの人物だけが描かれている涅槃図もあり、重要なメッセージが込められた人物であることは確かなのですが、真相は謎に包まれています。
写真D 阿難尊者と阿ぬ楼駄尊者 | 写真E 純陀 | 写真F お釈迦様に触れる老女 |
≪平成27(2015)年4月2日撮影≫ |
釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成27年4月3日(金):第1447号】