浄瑠璃姫伝説【岡崎観光きらり百選 bX】

 昨日、鳳来寺山における浄瑠璃姫伝説を紹介しましたが、岡崎においても浄瑠璃姫伝説があります。所によって、伝説の内容が変わります。その土地その土地での特色が出るようです。
 岡崎市には、浄瑠璃姫に関する史跡が何ヵ所かあります。岡崎観光きらり百選では、4ヶ所の寺院が指定されていますが、それ以外にもいくつかあるようです。きらり百選で指定されている次の4寺院に行ってきました。
  瑠璃山成就院【曹洞宗・岡崎市吹矢町:HP】写真@A  場所の地図
  金寶山安心院【曹洞宗・岡崎市明大寺町】写真B  場所の地図
  浄瑠璃山光明院【真言宗・岡崎市康生通西】写真C  場所の地図
  慶念山誓願寺【時宗・岡崎市矢作町】写真DE  場所の地図

 岡崎市吹矢町にある成就院の北側、乙川のふもとに、岡崎の浄瑠璃姫伝説である次の説明がありました。

 浄瑠璃ヶ淵跡  平成2年3月  岡崎市役所開発部公園緑地課
 今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。
 承安4(1174)年、浄瑠璃姫16歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。
 しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去って行ったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2(1183)年3月12日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。
 翌年の秋、旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、「穴観音」も昭和56(1984)年の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の町名にこそ往事が偲ばれます。
 なおこの句碑は、昭和39年12月に当時の愛知教育大学教授酒井栄吾先生により、建てられたもので、義経の去った奥州に向けて据えられています。
 句は、同学長内藤卯三郎先生の詠まれたものです。
     散る花に
       流れもよどむ
         姫ヶ淵
           笈斗山人(おいとさんじん)   

写真@:成就院全景 写真A:成就院裏手、浄瑠璃姫が入水した乙川近くに
建てられた石碑
写真B:安心院全景。浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられて
妙大寺が始まりといわれる寺院。かつては七堂伽藍を備えた
大寺だったそうです。
写真C:浄瑠璃山光明院全景。義経と浄瑠璃姫の画像が
残されているそうです。
写真D:誓願寺全景 写真E:父親が浄瑠璃姫を弔うために、誓願寺に十王堂を建
てました。その前にある石塔。「浄瑠璃姫菩提所」の石碑の土台
に、「義経像 志やうる里ごぜん像 井く 石塔」とあります。
 
≪平成23(2011)年12月22日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成23年12月25日(日):第252号】