設楽原の史跡@
新城市の一帯は、設楽原の戦いに関する史跡が数多くあります。その史跡の代表的な所には、「設楽原古戦場いろはかるた」の句標が建っていますが、句標がない史跡も数多くあります。今回は、「設楽原歴史資料館」周りで、「設楽原古戦場いろはかるた」の句標がない史跡を紹介します。
岡部竹雲斎・岩手左馬之助の墓 場所の地図
「首洗池」のすぐ北側にある小高い丘の上にあります。向かって左側が岡部竹雲斎の、右側が岩手左馬之助の墓です。両者とも武田軍の武将ということですが詳細はよく分かっていないようです。
≪平成27(2015)年2月28日撮影≫ |
小幡上総介信貞の墓 場所の地図
「設楽原歴史資料館」南西200mほどのところにあります。小幡上総介信貞は、長篠の戦いにも参戦しますが戦死はせず、武田氏滅亡後は北条氏に仕えたという話も残っているそうです。
土屋右衛門尉直村(直次)・従士 温井左近昌国の墓 場所の地図
「設楽原歴史資料館」から東へ300mほどのところにあります。土屋右衛門尉直村(昌次) は、馬防柵第二の柵を破り、第三の柵に辿りついた時、鉄砲により落命しました。従士温井は手早く主君直村の首を切り、戦場を去ってこの所まで来ましたが、ここも既に安全地帯ではなかったため、ここに首を埋め、自分も腹をかき割って殉死しました。
高森恵光寺快川の墓 場所の地図
丸山攻防戦跡から南へ200mほどのところにあります。史跡前に次の説明がありました。甲州恵林寺(えりんじ)等の資料に「(高森)恵光寺」設楽原討死とあります。主従全て戦死ともいう謎の武田武将です。
米倉丹後守正継の墓 場所の地図
雁望山登り口から南へ100mほどのところにあります。史跡前に次の説明がありました。米倉丹後守正継(重継)は、連吾川上流部で馬防柵を破り、半町程西の織田軍中陣中で討死にしました。
≪平成27(2015)年4月23日撮影≫ |
釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年9月15日(金):第4521号】