設楽原古戦場いろはかるたL

武田勝頼観戦地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。場所は直線で東郷東小学校から西100mほどのところですが、入口は東小学校から南200mほどのところを西に入ります。観戦地の手前200mほどの所にいろはかるたがあります。
 
 長篠城を包囲していた武田軍は全軍を設楽原に移動させました。総大将である武田勝頼は、清井田の武田勝頼戦地本陣地からここ才の神に陣を進め、連吾川沿いの戦線を一望、全軍を指揮したとされる場所です。(きらっと奥三河観光ナビより)

武田勝頼観戦地の石標と石祠 観戦地全景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年10月2日撮影≫

丸山攻防戦跡  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。「雁峰山登り口」から南へ500mのほどのところにあります。
 丸山とりでは、はじめ織田軍の佐久間信盛六千が陣を敷いたが、武田軍右翼の馬場信房は手勢七百の少数部隊で攻撃しこれを攻め占拠しました。
 山頂の石標には、
  「先 佐久間信盛 後 馬場信房 陣地」と書かれています。

丸山とりで跡全景 丸山とりで跡
山頂にある石標 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年4月23日撮影≫

広瀬の渡  場所の地図

 設楽原や長篠の戦いに関する史跡の一つです。
 「広瀬の渡」は、長篠の戦いにおいて、鳥居強右衛門が天正3(1575)年5月15日午前2時頃に長篠城から豊川に脱出し、そこから泳いで約4km下流において上陸した地です。15日明け方に雁望山から脱出成功の狼煙をあげ、そのまま岡崎城まで走り、長篠城の危機を伝え、援軍の要請をしました。その後一刻も早く長篠城内の味方に朗報を伝えるべくすぐに長篠城に向い、翌16日に再び雁望山から狼煙を3回あげて長篠城内に援軍来る!との知らせを伝えたということです。
 「広瀬の渡」に関するいろはかるたの句標は、「広瀬の渡」北側の道路上に建っています。

句標のある全景 いろはかるた

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年8月31日(木):第4509号】