設楽原古戦場いろはかるたD

瀧川助義・笠井肥後・相討ノ地・橋詰さんばし跡  場所の地図

 新城市出沢(すざわ)地区に「花の木公園」という所があります。公園という名前がついていますが、公園ではなく旅館を含めた民間施設です。名前は、戦前、同地を公園にしようと開発していた前経営者が、金沢の兼六園からハナノキの苗を取り寄せて植えたことに由来するそうです。昭和41(1966)年5月、現在の花の木公園経営者がその名前を引き継ぎ、養殖の釣り堀を開業し、現在、旅館・食堂・釣り堀を営業しています。
 この花の木公園の中には、設楽が原の戦いの遺跡があり、戦いのモニュメントも園内にあります。以下の説明文があります。

 天正3(1575)年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は、主君に自分の乗馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組み討ち、差し違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。
                         昭和62(1987)年7月9日 設楽原をまもる会

花の木公園の東側を流れる豊川 豊川にかかる長篠堰堤 花の木公園釣り堀
設楽原の戦いのモニュメントがある園内 「瀧川助義 笠井肥後相討地」の石標
≪平成26(2014)年8月6日撮影≫

山本勘蔵信供の墓  場所の地図

 山本勘蔵信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘助晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれ、天正3(1575)年5月、設楽原の戦いに20才の若さで討ち死にしました。
 墓は勝楽寺から南へ約250mのところにあります
 信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、長篠城監視隊として、寒挟川沿いに備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦しました。しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前に石を建て弔ったといいいます。後に一石五輪塔がまつられました。(墓前の説明看板より)

≪平成26(2014)年12月26日撮影≫

鳶ヶ巣奇襲隊進路 松山越  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。多くのいろはかるたからやや離れた吉川地区にあります。
 いろはかるたの隣に次の説明がありました。

 天正3(1575)年、長篠の戦い設楽原決戦の前夜、信長の命をうけた酒井忠次は3千人の兵で豊川を渡り、この吉川から松山峠を越えて長篠城の背後迄迂回し、武田軍の拠る鳶ヶ巣山を攻撃した。この作戦は、織田・徳川連合軍大勝の起因となったといわれる。
  昭和57(1982)年3月30日 新城市教育委員会

 鳶ヶ巣奇襲隊の進んだ道筋は、川路の広瀬で豊川を渡り、塩沢から吉川に抜け、豊川沿いの舟着山を南に避ける大迂回作戦でした。常寒山の山腹を経て鳶ヶ巣に至る杣道は、土地の者でなければ見当もつきません。当時、吉川在住の豊田藤助が吉川から先導したといわれ、いくつもの険しい峠と谷をつなぐ難路の道案内は地元の藤助なしでは不可能でした。(HPきらっと奥三河観光ナビより)

鳶ヶ巣奇襲隊進路遠景 船着山(松山越)への矢印 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年10月12日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月17日(月):第4464号】