設楽原古戦場いろはかるたB

樋田(といだ)  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。新城市日吉地区にある新城広域クリーンセンターを道路をはさんで反対側の高台にあります。
 川路城主であった設楽貞通は地元武将として酒井忠次率いる鳶ヶ巣山陣地の奇襲部隊に加わり陣を構え決戦に備えました。本隊の退路確保、川沿いに南下する武田隊の阻止のためです。翌朝、地の利を活かして鳶ヶ巣から敗走する武田軍の退路を断った設楽貞通は、武田の敗残兵を討ったということです。(きらっと奥三河観光ナビより)

遠景 陣地を示す石碑 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年9月9日撮影≫

原隼人佐昌胤の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。信玄塚から南へ100mほどのところにあります。原昌胤(まさたね)は父の跡を継ぎ、陣場奉行を勤めており、設楽原の戦いにおいて、武田勝頼に撤退を進言しましたが聞き入れられませんでした。そのため、内藤昌豊らと共に徳川本隊を目指して攻撃しましたが、敵の銃弾を浴びて討死にしました。昌胤は、平時は優れた土木技術者として治水工事で大きな業績を残しているとのことで、そのことが、古戦場いろはかるたに記されています。

いろはかるたと中央の遠くに見えるのが墓 原昌胤の墓 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年2月28日撮影≫

五味与三兵衛貞氏の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。場所は東郷東小学校の北側の道路を西へ200mほど行ったところに南側へ登る階段があります。その階段を登って100mほどの山の中にあります。草がうっそうと茂っており、3度目の挑戦で草をかき分けやっと目的の場所に到着しました。

 「長篠の戦い」で浪人衆の組頭として、鳶ヶ巣砦群のひとつ中山砦に布陣し、酒井忠次らの奇襲攻撃を受け討死しました。鳶ヶ巣で討死というのに、離れた場所である事、鳶ヶ巣から勝頼本陣まで来た事情、大正三年の建碑に「傳五味與惣兵衛貞氏之墓」と『傳』の一字が刻まれているなど、五味塚は謎の塚といわれています。(きらっと奥三河観光ナビより)

東郷東小学校北側の道路からの登り口 五味貞氏の墓 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年10月2日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月12日(水):第4459号】