設楽原古戦場いろはかるたA

設楽原古戦場  場所の地図

 設楽原古戦場の一角であった、伊那街道添いに、設楽原の戦いを代表する句標があります。
 天正3(1557)年4月5日、武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて甲府を出立し、奥平貞昌が守る長篠城を包囲します。この武田軍に対峙するは、織田・徳川連合軍。連合軍は、3万8千の大軍で設楽原に進出し、馬防柵を構築します。これに対して武田軍は、長篠城の包囲に3千の兵を残し、寒狭川を挟んでにらみあいます。5月21日、戦史を変える設楽原の戦いが繰り広げられます。
 設楽原決戦から15年前の永禄3(1560)年、当時26歳であった織田信長は、桶狭間で今川義元を倒します。わずか2千の織田軍が、2万5千の今川軍に勝利します。その時の義元と同じ41歳になった信長は、設楽原では逆の立場で武田軍に対します。味方は大軍の3万5千、相手の武田軍は1万2千。武田勝頼は29歳です。桶狭間の迅速・果敢な攻撃から一転して、馬防柵と火縄銃による「待ちの戦い」をとります。「守りながら攻める」鉄炮の特徴をねらったのです。戦国の流れは、信長の時代へと大きく動きだします。

句標のある遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年7月17日撮影≫

火縄銃玉採集地  場所の地図

 設楽原古戦場の最初の玉は、昭和37(1962)年の夏、竹広字連吾の飯田線北側の畑の中で見つかりました。畑仕事をしていた農家の人の目に、少し青みを帯びた白く丸いものが映りました。「小石にしては丸すぎる」と思って手に取ると、意外に重く感じ、その後弾丸とわかりました。この時の二個は、今、長篠城址史跡保存館に展示されています。
 設楽原で、これまでに発見された火縄銃の玉は14個で、10mから15mの間です。一個は鉄玉、他は鉛玉です。当時の玉製作過程を考えると、鉄製はなかったように思われます。鉄炮は発見されていませんが、出土した玉(設楽原歴史資料館展示)は、戦国の戦いの貴重な証人です。

句標のある遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年7月17日撮影≫

馬場美濃守信房・馬場彦五郎勝行の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。新城市出沢にある「花の木公園」の800mほど南側の道路沿いにあります。常に通る道路沿いでしたが、今まで気づいたことがなく、今回初めて訪れました。
 
 入口に、「設楽原をまもる会」の看板には、次のような記載があります。
    馬場美濃守信房
     〃 彦五郎勝行 の墓
 3つの石碑があり、左側が馬場彦五郎勝行之墓、中央が馬場美濃守信房之碑、右側が馬場美濃守信房之墓のようです。
 馬場信房は、天正3(1575)年の橋詰殿戦で、「ふぢう道」を通って敗走する主君である武田勝頼を助けながら勇敢に戦い、勝頼が無事に豊川を越えて落ち延びていくのを見届けた後、自ら首を差し出し戦死しました。そのため、設楽原古戦場いろはかるたは、「平然と 首を渡す 美濃守」となっています。馬場信房の戦死の地は、ここより寒狭川のもう少し上流にあり、馬場信房の首を埋めたという墓は長篠城の近くにあります。馬場彦五郎勝行は、伯父とも子供とも言われ、真相は定かではないようです。

墓入口の看板 墓の全景 設楽原古戦場いろはかるた
左側「馬場彦五郎勝行之墓」 中央「馬場美濃守信房之碑」 右側「馬場美濃守信房之墓」
≪平成27(2015)年1月24日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【令和5年7月6日(木):第4453号】