栃木県益子・・・2001年5月2日


プロローグ

 毎年、4月終わりから5月上旬にかけてのゴールデンウィークに益子では春の陶器大市を開催するのである。大体このシーズンは、1月から仕事で突っ走ってきているので、そろそろ休みたい時期にぶつかり、8〜9連休とするのが恒例となっている。まぁ、私だけの恒例なのだが・・

 さて、今年であるが、やっぱり9連休としてしっかりと休暇を取ってしまった。休暇を取ったといってもわずか二日間だけである。
 5月1日と2日で、このわずか二日間を休暇にすることにより、9連休が実現するのである。
 ちなみに鬼が大笑いするのだが来年、つまり2002年は4月27日から5月6日までがゴールデンウィークとなる。来年は曜日の関係で4月30日〜5月2日の3日間の休暇を取ることによって10連休が実現するのである。
 さて、そんな訳で今年のゴールデンウィークであるが、4月27日金曜日は、仕事の関係の飲み会が午後5時半からあって、とりあえず公式の席は午後8時まで。
 自分では、『明日から9連休であるので一日足りとも無駄にしまい、まして二日酔いで動けない日など作ってはだめだ!!』とひそかに心に誓っていたのである。
 1次会が終了して、じゃ〜ということで、日本橋まで車で戻ってきたら、ほぼ全員が待っている。これはやばいじゃないか、と思いながらも、後輩の「軽く・・・」という悪魔のささやきを聞いてしまい、人形町にあるスナックへ。この時点で人数は半分の4人。誰もいない席にゆったりと座ってカラオケ・・・、今日の最初が焼酎のオンザロックだった上に、このスナックで久しぶりにウィスキーの水割りを飲んでかなり酔いが回ってきたのである。
 ここを出たのが午後10時ちょい前。  一人帰って、残りは3人。一人だけがもう一軒行きたいという。まだ飲み足りないというのである。それならばということで、地下鉄人形町のそばにあるここも小さなスナック(「ガロ」ではない)に入り、再びウィスキーの水割りのがぶ飲み。カラオケで佐々木勉を歌い、結局、終電で帰宅。もちろん午前様である。

ゴールデンウィーク前半

 今年のゴールデンウィークは自転車旅行、北海道旅行と踏んでいたのだが、いずれも計画倒となっていたことから、これをカバーすべく何かをしなければならない。何のための9連休だかわからないことになる。ただ、元手がやや不安のことからあまり派手なアクションはできない。
 前半は少なくとも借りている畑の整理やら草取り、季節の植物の植付けなどを計画していたのだ。  ところが連休初日は大二日酔いのためまったく動くことができない状況となってしまった。最も、連休前半は雨が降り続きあまり農作業には適していなかったことも確かである。
 そのため、前半は室内でできる作業に従事することにとた(「従事」というほど大げさなものではない。)。まずはデータベースの作成である。これはAccessを使ってハーブに関するデータベースを作成するための基本設計をすることである。ただ、基本設計と大げさなことをいっているわけだが、実際は市販のソフトに必要な項目などの設定を打ち込むだけなので、やりだしてしまえば半日もかからずに基本設計は完成するのである。あとは少しずつデータを入れながら直していけばよいのである。

 次の仕事はホームページの更新である。というよりも整理である。本体の「中年の独立国ーハーブの世界」は全部で300ページもあり、写真などを含めて1800ファイルがある。FTPするときに削除し忘れたものや、あるいは差し替えをしなければならない写真などの整理も必要であった。これが前半の最大の仕事となった。結局これに3日間とられてしまったので、前半は終わってしまったのだ。
 しかしよく考えてみると、いずれもパソコンに関するものであり、その内容はハーブという共通面をもっていることになる。

益子行き

 5月2日を益子に行く日と決めた。前日の午後3時である。特に準備はない。せいぜいデジカメ程度のものである。
 5月2日は午前8時調度に自宅を出発した。もっと早く、できれば7時過ぎにと思っていたのだが、なかなかうまくはいかない。今回の益子は女房と一緒に行くことになったので、その準備などが手間取ったのである。
 自宅から少し走ったところで国道408線にのる。あとは道路標識に従って、筑波山方面へ走ればいい。途中国道125線に入る。筑波山に登る道路を右方向に見つつさらに数キロメートル走ると、地方道の「つくばー益子線」にはいる。これに乗ってしまえば後は楽である。田舎道を自分にあったスピードで走ればよい。道は対面2車線。ちょうど連休の真中でしかも平日。こんなときに車が混んでいるわけもない。たまに最盛期となっている田植えのため。稲苗を満載した農家の軽トラックや耕運機などが道を邪魔する程度である。周りは田植えの真っ最中である。機械で植えたあとに植えきれなかったところや、うまく機械から苗が出なかったところなどは、人手で一つ一つしっかりと手直ししていくのである。この風景がまさに田植えの風景なのである。そんな風景を裏筑波からずっと見ていくと、道の最後で国道50線に突き当たるのである。

 ここが、ひとつの益子に行くときの目安である。何の目安かというと、あと15Kmという地点であるため、ホッと安心する目安なのである。
 国道50号に突き当たったら右に折れてやく500メートル。そこで左折をすれば、後は本当に一本道である。
 益子についたのは、結局午前9時30分。自宅から75km。
 益子の町はかなり込んでいて、陶器市のメインの通りから入ることができる駐車場はどこも超満車。益子焼共販センターの大駐車場もまったく入ることができない。結局入ることができたのは、坂をずっとあがっていった頂上にある駐車場。・・・むっ、ここは確か2年前にきた場所だ。同じ駐車場である。それならば道もよく覚えているしかえって助かってしまった。

 益子の町に下りると、すぐに共販センター前のテント村に出る。ここは通常ならば駐車場となっているところなのだが、この陶器市が開かれる間だけ、各窯元のテントが立ち並び、メイン会場のとなるのである。この会場を一回りして詳細に見ていくと今年の傾向が大体見えてくるのである。
 益子焼は農民のあるいは庶民の焼き物として定着していたのだが、濱田庄司によって芸術作品にまで到達し、現在の益子焼きの隆盛があるといわれている。

 しかし、われわれ庶民にはそんなことは関係ない。ちょっと分厚くて、重くてそして色使いも藍と茶が中心の、昔の益子焼に愛着があるのである。我が家の食器棚のほとんどが益子焼で埋め尽くされているのだが、まだまだここにくるということは、単に茶碗や皿を集める以上の魅力があるからなのだろう。
 自分の買ったものの歴史を見てみると面白い傾向があることに気が付く。
 最初にきたころ(20年くらい前)、やたらに大皿を買い求めていた。丸や四角の大皿をセットで購入したものである。セットといっても一杯積んである同じ模様の皿を、なるべく色の斑がなく形が整い、セットと見える色合いに統一されているものを探すのである。我が家にはこのとき購入した皿が大量にあるのだか、最近はあまり利用していない。
 次はどんぶりの時期である。これは10年ほど前である。大小いろいろなどんぶりを購入したのである。意外にこの利用価値は高く、煮物の保存やそのままの形で食卓へ出したり、またうどん丼などもいまだによく利用されているのである。皿よりも「器」としての価値が高いのがどんぶりなのである。どんぶりの柄はあの益子焼の世界ではあまり変わらないのである。したがって、使っていて欠いてしまっても、翌年の益子で数年前と同じ柄、同じ大きさのどんぶりを変えるのもうれしい。
 そして最近の傾向はちょっとした大きさの皿、小鉢が中心となってきた。全体的には、従来の益子の色使いから少し離れた作品を買うようになっている。益子での作陶傾向が創造の世界に入ってきたのではないか、あるいは形・色に自由度が高まったのかもしれないと思っているのだが、同時に購買者である我々がそれを求めていることの反映なのかもしれない。

 今年は、手書きの色違いの小皿2枚と、幾何学的な模様の中程度の大きさの皿を買ってきた。
 乱雑にただ積み上げられた中から自分の好みのものを探すのは手間がかかって大変なのだが、これがまた楽しいのである。共販センター前のテント村と共販センターの中を見終わった時点で、午前11時30分。そろそろ腹がすいてくる。共販センター2階の食堂があるのだが、ここは前回はいって「まずい」ことを確認済みである。そこで、ヤマニ大塚陶芸の店先で打っている山菜オコワを買い求め、これに缶ビールで昼食とすることにした。木陰にあるテーブルについてゆっくりとして昼食を食べる。このオコワは暖かくて出来たてで美味しい。さすがにビールは合わないのだが、珍しくよい天気になったものだから、のどの渇きがつよく思わず「ビール1本」といってしまったのである。

 ゆっくりと休んだあとは、今度はメインストリートの両側の陶器店の物色である。
 今年は右側から歩いていこうということになって、一軒一軒しっかりと見ていく。毎年とても気に入っている店がこの右側の列にあるのだが、今年もディスプレーもすばらしく良いものがたくさん出ていたのだがどうも懐具合との相談では買えそうもない代物ばかりであった。
 折り返し点まで行くと最後のところに藍染め屋がある。
 中に入って藍染めの藍の苗や藍染めされた着物を干しているところ、綿花から種を除き、糸を紡いでいる様子などを見学し最後に藍が入っている釜をみた。生きている藍は釜の真中に泡のようなものが集まっていた。釜の四隅に蓋が合ってそこから煙が立ち昇っているということは藍を暖めているのだろうかと、と思いつつ今度は反対側の陶器店を覗いていくことにした。
 上り坂ということと、ビールの疲れが出てきたので、ちょっと歩いてはゆっくり見て、またちょっと歩いてはゆっくり見ての繰り返しで、やっっとのことでテント村まで戻ってきた。
 だいぶ喉が渇いていたが、車を駐車したところに美味しいハーブの店があることを思い出して、そこでハーブティーを飲もうということで、最後のがんばりで山の頂上まで上ったのである。
 へろへろになりながら、前回来たときに美味しいハーブティーと料理を楽しんだ店の前に行くと「本日休業」。
 ガクッ!となって、車に戻り暖まってしまったペットボトルを飲みながら、益子の町を後にした。
 益子を出たのは午後2時45分。
 まったく同じ経路をたどってつくば市に戻り、若干買い物をして自宅へ帰り着いたのは5時近く。
 もちろん、夕食には新しい器がすぐに使われたのは言うまでもない。

エピローグ

 益子は数年前に町並みを大きく変えたのである。
 少なくともそれ以前は、メインのとおりは車がすれ違うのがやっとで、陶器市のときなどは大変な渋滞を生むことにもなっていた。古い家並みは蔵作りのものもあったし木造のものもあった。軒が低いのがこの町の特徴かと思うほどに暗い室内で、陶器を見るにも電灯の光で見る時代が続いた。
 とくに、陶器市の時期をはずしていくと地方の寒村といった風情で、このときは実にゆっくりと焼くものを堪能することが出来たし、かけた陶器のつぼに飾ってある野の花などもいつのまにか枯れてそのままドライフラワーになっていたことなども、なかなか良い風景であった。
 いま、益子の町は大きく変わろうとしている。陶器市を梃子に町興しをしているようだ。町並みが一新されて明るくなり、歩道は敷石で固められてまだ若い並木がいかにもスマートなイメージとなっている。
 昔の町並みが熟年の町あるいはそれよりもちょっと成熟が進んだ町というイメージであったとすれば、今の町並みは青年の町である。若さがまぶしい新しい町に生まれ変わったようだ。


2001年5月27日記