「中年の独立国」創世記



1.インターネットとの出会い

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 パソコンを始めたのは、ほんのちょっとしたきっかけだった。
 1994年の6月の人事異動でそれまでいたS部からK部へと異動し、そこに1年後輩のSがいた。
 翌年8月になってSがパソコンを買った。そしてさかんに、パソコン通信をしようと私に話し掛けてくる。こちらも、その年の4月にかなりの金額を投資して最新型のワープロを購入(185,000円)したばかりで、たまたま、そのワープロに通信機能があり、ニフティーサーブの使用権付きサービスがあったことから、さっそくニフティーサーブに入会したのである。

 これが1995年8月25日のこと。

 パソコン通信は、電子メールを送ったりすることがメインと考えていた。しかし、実際には、どの様にメールをやり取りするかは分からないうちに、シスオペから直ぐに入会お礼のメールがきた。これは非常にうれしかった。
 しかしながら、本来、Sとメールの交換をしようということで、niftyserveに入ったのに、そのSが、未だにニフティーサーブに入会していない。待てど暮らせど連絡が無い。本人に直接確認すると「もうすぐです。」との返事が多い。結局、一週間以上遅れてSもニフティーサーブに入会。二人の間でのメールのやり取りが始まった。
 しばらくすると、SがPCVANへ入会し、続いて自分もそれにのった。ところが、PCVANは、画面の更新速度が遅く、非常にいらいらする。殆ど使わずにそのままにしておいた。もちろん、ニフティーサーブがメールのやり取りの中心である。しばらくして、同じ部屋の仲間も何人かニフティーサーブに入会するようになって、会社で毎日顔を合わせているのに、夜間に結構メールのやり取りを行いそれを楽しんだわけだ。
 こんなことをしているうちに、11月17日に、たまたま見にいっていた電気屋に、Sが8月に248,000円で買ったと言うパソコンが178,000円で売られている。これは買いだと思い、即日購入をしてしまった。
 そして、1995年の年末を迎え、たまたまSと飲む機会があり、お互いに「来年の課題はインターネットへの接続だろうね。」と言うことになった。当時は、まだそれほどインターネットが注目されていない時期でもあり、また目立たない状況でもあった。
 これを機会に、年末年始で完全にインターネットへの接続を確立しようと思い、いろいろ調べたのだが、結局、プロバイダーなるものと接続契約しなければ接続できないことがわかり、年末年始は、さびしく、年賀のメールを送信するにとどまってしまった。
 ところが、インターネットへの熱はなかなかおさまらない。実際にはプロバイダーなるものの意味が分からず、また、何を調べたらいいのかも分からない状態であった。
 こんな状況のうちに1996年1月が終わってしまった。

 2月上旬のある日、PC−VANの「会員へのお知らせ」欄を見ていた。ふとひとつの記事が目を引いた。
 「PC−VANからインターネット」
 何だろうとおもって思わずクリック。
 内容は、PC―VAN専用のブラウザ「ワールドトーク」がありこれを1000円でダウンロードするとすぐにインターネットに接続できるとのこと。
 「う〜ん。」としばらく考え込む。
 今までは、プロバイダーなるものへの接続をし、入会料・月間費用等を払い込みながら月5時間とかの利用しかできないという状況である。
 しかも、入会金を1万円も徴収するプロバイダがある。こんな状況の中で、今のPC−VANは、月額2千円で、わずか3時間ではあるがインターネットが楽しめるというのだ。これは願ってもないチャンスだと考えた。
 実際のパソコン通信関係はNIFTYSERVEで十分間に合うし、あえてPCーVANを接続している意味が無く、そろそろPCVANを止めようかと思っていた矢先の朗報であった。
 早速、1000円の徴収金額(これは翌月の通信料の支払時(銀行決済)に追加して徴収されるシステムとなっている。)を取られることを覚悟で、当該ソフトのダウンロードに走ったわけである。
 ダウンロードは数分で終わった。
 ソフトの名前は「ワールドトーク」、これを立ち上げると、同時にpc-vanの接続ソフトが立ち上がり、自動的にPC−VANのアクセスポイント経由でインターネットに入れるのである。
 もちろん最初に立ち上がったページはPC−VANのホームページである。ページが立ち上がるまでは若干の時間を要するものの、映像は実にシャープでかつ美しい。たちまち、インターネットの虜になったのは言うまでもない。やっと、wwwを縦横無尽に走り回るための最初の手段を手に入れたのである。

2.プロバイダーへの登録

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 そんなわけで、超激安のブラウザを手に入れ、たちまちネットサーファーとなったのである。
 一方、Sは、結局独自開発路線がうまくいかず、その年の5月直前のところで、当該「ワールドーク」によりインターネット接続に成功したのである。その経緯は、私の持っていたワールドトークを「PD」に落とし、それを会社で受渡し、Sが家に持って帰り、自分のパソコンへインストールすることにより接続可能となったのである。この時ほどPDの威力と同じパソコンを持っている利便性が発揮されたときはなかった。PD自体は650メガバイトの記録装置であるが、記憶する媒体である「PD」が軽くて小さくて持ち運び可能なのである。しかも650メガバイトの容量である。相当大きいプログラムでも、10本は十分に入る容量である。

 さて、その後の展開であるが、そこそこインターネットに入っていたものの、料金の関係から、接続時間の制約等も有り、なかなか見たいホームページに行き着かない。その年(1996年)の7月に、PC-VANのホームページを見ていると、「MESHNET」というNECがバックとなったプロバイダーによるインターネット接続サービスを開始する旨の表示があった。月額2000円で15時間のサービスだと言う。プロバイダーである10数社について、金額面(入会金、ランニングコスト)、時間面(基本時間、定額時間後の1分当たりの料金)、バックとなっている会社等についていろいろ調べたが、他に適当なプロバイダーが無く、また、金額面で見るとかなり安いこと及び市外局番が自分の住んでいるところと共通である「つくば市」に接続ポイントがあることもあって、meshnetに入ることを決めた。
 実際に入会したのはそれから1か月後の8月25日。当日、オンラインにより契約をし、同日から「MESHNET」によるインターネット接続を開始したのである。丁度、niftyserveでパソコン通信を開始してから1年目に当たる記念日でもあった。当然、PC-VANはその時点で契約解除したわけである。
 MESHNETに入会したことは、9月に入って公然化した。あえて公然化する必要はなかったが、Sとどうも話が合わないので、
 「えーい、面倒くさい!!」
 ということで
 「実は……」
 と公表した訳である。すると、Sもすぐにメッシュネットに入ってきた。

3.パソコンの強化作戦

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 1996年の年末になって、それまで14400bpsの速度で通信していたが、やはり遅い。思い切って、モデムを購入(17700円)。スピードは一挙に2倍の28800bpsとなった。
 インターネットへの接続時間、ホームページの画像処理時間は対して変化が認められなかったが、気分的には『なかなか早いぞ…』なんて自己満足していたわけである。
 また、これと前後するのだが、その年の7月14日にメモリーの増設も行ったわけである。
 それまでは、購入時のままの8メガバイトであったが、画像処理や、マルチタスクでの無理な面が発生し、しばしば仮想メモリーに食い込むなど、メモリー不足の状況が認められたため、ついにメモリーを増設したのである。Sは、この時、既に8メガバイトを増設し合計16メガバイトとなっていた。当該機種(panasonic CF32GP)は、メモリーの最大容量は、設計上32メガバイトなっている。現在8メガだから、24メガを足せば32メガになるのだが、近所のパソコン専門店ではどこにも24メガバイトのメモリーが売っていない。やむを得ず、16メガバイトのメモリー(25.4mm以下、72ピン、70nsec、ノンパリティ)を、つくば市の石丸電気で購入(20800円)し、増設したのである。
 これに加えて、翌年(1997年)の1月3日に外付けのハードディスクを購入、ハードディスクの容量拡張に着手した。それまでの、ハードディスクは540メガバイトで、ウインドウズ95などのOS関係で100数十メガバイトを取られている。このため、残りは300メガバイト強。各種のソフトをインストールしていることから、いくら頑張っても残容量は100メガバイト程度になってしまう。これ以上新たなソフトを入れられない状況となっていた。
 購入したハードディスク関係は以下の通り。
 外付けハードディスク(2ギガバイト)  40800円
 スカジーボード     13800円
 接続コード       4300円
 購入した当日、パソコンの蓋を開け、先ずスカジーボードを接続、更に、ここから接続コードを出して外付けのハードディスクに接続、ハードディスクの設定をマニュアル通りに実行。
「……?」。(・・;)
 なにかおかしい。マイコンピュータを開けると、外付けのハードディスクは「D」で認識している。しかし、今まで「D」ドライブにあったPDドライブが無い。
「ムッムッ!」(*_*)
 更に、今まで「E」ドライブとなっていたCD-ROMドライブがない。
 しかし、5日までの年始休みの期間にこの問題は解決できず、結局、新たに設定したスカジーボードを取り外し、元の状況に戻してその日の作業を終了させたわけである。そして毎週土日が、地獄の試練となり、設定作業は、ずるずると延びてしまった。しかしながら、この間、パソコンのマニュアルを確認したところ、SCSIボードをつける場合には、SCSIボード上に設定されているジャンパーピンとパソコン本体のジャンパーピンの設定を変える必要が有り、更に、新たに、I/Oアドレス、ジャンパーピンによるIRQの変更、新規に接続したハードディスクのFDISK設定も併せて行わなければならないことが解ってきた。そして、決定的だったことは、別途ジャンパピンを購入する必要が出てきたことである。これが解ったのが、1月中旬の新潟出張の直前であった。

 新潟には、1997年1月21日から24日までの3泊4日。
 駅前の、「ホテルサンルート新潟」に宿を取り、初日は仕事と飲み会で終了。
 翌日・翌々日と昼休みをすべて使って「ジャンパーピン」を捜し求めたが、電気店・パーツ専門店・メーカーいずれにも無い。結局、出張最終日に、東京に戻ってきて、そのまま秋葉原に直行。
 秋葉原の、くそ小さい店でやっとのことで購入となった。2.54mmのジャンパーピンを予備を含め3個購入、120円なりであった。
 このジャンパーピンを探し求めたことで解ったことは、パソコンショップの店員の多くが「ジャンパーピン」を知らないことだった。コンピュータの通信では、あまりにも一般的なことなので、自然に店員に聞いたりしたのだが、殆どの店員が「それ!なんですか?」との質問を返してくる。これには参った。
 買ったジャンパーピンを持ってそのまま自宅に帰り、出張の荷も解かずにパソコンを解体。サウンドボードなどのメインユニットを全部はずして、一番奥に位置し、横向きについているジャンパーピンを正しく差替えし、新たに、1個を追加して設定した。再度、各ボードを戻して、SCSIボードを接続、配線を正確に接続し組み立て完了。電源を入れ、F-DISKの設定を終了させ、再立ち上げ実行・・・・。
 そして、マイコンピュータの設定を確認、
 「う〜む、出来る!!!」
 Dドライブが増設ハードとなっている。そして、SCSIボードを接続すると無くなっていたPDがEドライブに、またCDはFドライブに設定されている。それぞれを作動させてみると、PD、CDともに正常に作動する。取り敢えず、強化作戦はかなりの持久戦に持ち込まれたが、結果は当方の圧勝となって終わった。

4. ホームページ開設

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(1)プロローグ
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 ホームページ開設については、以前からいろいろ準備を進めていた。1月末にパソコンの環境が整ったことから、ホームページを実施に移すべく各種検討を開始した。
 パソコンシステムの安定的な運用が確認できた1997年2月下旬にプロバイダーに対し、ホームページ開設のための申請を行った。オンラインで行ったこともあり、2〜3日後には、開設手続きが終了。後は、こちらから作ったHTML文書を決まったURLにFTPするだけになった。
 この時点で、ホームページ名は「中年の独立国」と決まった。これは、スイスの経済学者チューネンが唱えた「孤立国」の定義を借用し、本来であれば「チューネンの孤立国」と言われているものを「中年の独立国」としたものである。
 チューネンのいうところの経済的「孤立国」とは、原料供給・製造・消費が正三角形で結ばれ、この距離が短ければ短いほど、効率的な経済体制であるとか無いとかとの理論だったような気がする。
この、概念は高校の社研のときに覚えたもので、いつしか理論は忘れ、名前だけを覚えていたものである。
 我ながら上手い命名であると、一人悦に入ったことは言うまでもない。

 ここまで決まると、後はそのコンセプトをどうするかと言うことと、コンテンツをどの様にするかを考えればよいだけである。実は、これが最大の問題であった。
 ところが、コンセプトはどうあれ、コンテンツはすぐに決定してしまった。
 全体を、4部構成にして、メインを「釣り」「競馬」「ハーブ」とし、全体のバランスを取りつつ「トピックス」で話題の提供とスタッフの近況を記載することで、リピーターを確保し、かつ親しみあるページをと考えたわけである。
 この話は、スタッフをお願いしようと考えていた2氏に直ぐに連絡し、「まあ、一杯!!!」と言いつつ、了解を得ることが出来た。

 先ず「釣り」関係である。釣りが好きで、かつ釣行回数が勝負となることから、Cさんに、お願いした。当然、ホームページの更新は、毎週行うのを原則としていたが、釣りに毎週行くことは、金銭面でも時間的面でも大変なことである。従って、行かなかったり、行けなかった場合は、お休みも『あり』という条件である。
 必要に応じて、私が、フォローすることとした。もちろん、無報酬である。

 「競馬情報」はH氏にお願いした。H氏は、学生時代から勉学そっちのけで「競走馬の血統の研究」をしており、これは、彼が会社に入った時の、自己紹介文にもかかれていることである。まさに適任ということで、お願いしたところ、快く引き受けてくれた。もちろん「情報」といっても実際は「予想」である。「予想」は的中することが必要で、それが人気あるページとなる条件である。かなり厳しいお願いであった。

(2)ホームページ作成とFTP
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 1997年3月上旬からホームページの作成を開始した。
 当時はHTMLの文書作成のためのマニュアル本などがあまり無く、また、HTMLは、慣れないとかなり面倒くさい。手っ取り早い方法として、ホームページビルダーなどと呼ばれているソフトを購入した。と言うのもホームページを作成しようとして、いろいろなパソコン雑誌で、どんなホームページが良いのか、いろいろ調べていたときに、その解説の中にHP専用のソフトの話が載っていて、かなり楽にホームページが作れると言う。近所の電気屋(今後つくば市にある「石丸電気」を「近所の電気屋」という。)にいくと、数種類のソフトがある。その中で値段が高くも無くまた安くも無い「ソフト」を購入(12000円)した。
 これを家に持って帰って、早速インストール。説明書を読みながら、当初考えていたイメージを実現するべく作成していく、意外に簡単にページが出来るではないか。

 1ページ目はタイトルと目次を入れ、目次は別のページにリンクできるようにした。もちろん、予め別のページを設定(内容はまだ入れていない。)し、そこにリンクさせるわけである。タイトルバックの映像が無いことから、これは無視して、文字は最大のフォントを指定、センタリングをした。文字色も設定できたが、当該ページ全部の設定となり、部分的に色を変えるのはこのソフトでは無理だった。そして、1ページ目の最終行には自分宛てのメールアドレスを挿入し、クリックすることで自動的にメール作成画面が立ち上がるようにした。

 2ページ目は、「トピックス」とした。タイトルは同様に最大フォントで、センタリング。内容は、話題を提供する「トピックス」と「スタッフの近況」からなり、雑誌などでは、最初と最後になる部分をひとつに纏めてしまった。
 ここには、最終行に、最初のページに戻るリンクと、次のページに行くリンクをつけた。

 3ページ目は、H氏が担当する「競馬情報」である。
 最初は、このページに『予想』と『結果』を載せたのである。原則、各ページを1ページとしたからである。ただし、原稿はまだきていなかった。実際に、出来上がった姿を見てから、ある一定の時期を決めて、ホームページを公開したかったからである。同時に、FTPにも若干の不安があった。と言いつつも、3ページ目のレイアウトは完成した。

 4ページ目である。これは、自分の「ハーブの部屋」とした。構成は、自宅にあるハーブの紹介とレシピとすることを予め考えていた。レシピは、将来的には別ページにし、目次をつけて独立させるべく考えていたが、原則担当するページは1ページとすることは、自分にも課したわけだ。

 5ページ目はCさんの「釣り情報」である。当初実際に釣りに行ったときの天候・潮温・仕掛け・餌・釣果等の情報と、簡単な釣行記を考えていたが、実際には、釣行記に力が入り日記風釣り記という体裁だった。また、釣行の結果としてのレシピも、随所にと考えていたわけである。

 3月15日に、一応のレイアウトが完成。ローカルでのテストは上々であった。翌16日、ホームページ開設にとって必要絶対条件であるFTPを行った。これはFile Transfer Protocolの略で、ホームページを公開するサーバの自分に割り当てられた場所に、作成したホームページのファイルを転送することである。数回の試行錯誤の後にFTP成功となる。
 ただし、成功してから2回目以降のFTPが上手く行かない。インターネットに接続して、自分のホームページを見ると、タイトルだけが書かれた惨めなホームページが表示される。容量を確認する。1メガバイト近い。何かおかしい。FTPソフトの中身を調べる。調べていくうちに送るべき画像(GIF・JPEG)以外に、必要の無い画像もすべて一括してHTMLファイルに取り込んでいたため、これらも併せて送信してしまっていたことが解ったのである。
 早速HTMLファイルからこれらを削除し、再度、FTPをして、軽量化を図った。これは成功。容量は一気に200キロバイトまで落ちた。

(3)ホームページ公開
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 FTPが上手く行かず、2週間を棒に振ってしまった。ところが、4月に入り、NIFTYSERVEのソフトを閲覧していると、FTPが容易なシェアウェアが載っている。
 価格はわずか800円。早速ダウンロードしてみた。すべて日本語表示で、それまで、米国のサイトからダウンロードしたFTPソフトとはまったく違う。HELPから採った説明文も非常に詳しく、BiglobeやInfowebの特殊なFTP部分に対する対応も簡単に取れ、かつ、ビジュアルなのが良い。早速、マニュアルに従い、ある程度文章を書き込んだホームページのファイルをFTPしてみた。1分かからずにFTP完了。ホームページを開いてみる。見事に送信されている。そこで今度は、文章を全部はずしてFTPしてみる。インターネットから再びホームページに入ってみる。文章の無い、哀れなホームページが閲覧できた。
 「う〜む…ついに完成だ!」。
 翌月曜日、何も書かれていないホームページの原形をカラー印字して、CさんとH氏に見てもらい、1997年4月5日の開設を目指して原稿を依頼した。
 原稿は3日程度で出来てきた。いずれもワープロ打ちである。これを持って帰り、パソコンに打ち込んだ。
 そして、4月5日(土)にFTPをして、ホームページの公開となったわけである。

(4)エピローグ
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 1998年9月28日、78回目の更新を行った。
 ホームページは幾度かの全面改訂を行い、内容的にもかなり充実したものとなってきた。
 アクセス回数は、1年半で6000回。個人の、趣味の世界のホームページとしては良いのではないかと思っている。早い時機に、アクセス回数1万回の達成と、更新回数100回を目指して、ますます頑張っていこうと思っている。

1998年9月29日記





【追記】

(2023年1月15日)

 エピローグの後にまた「追記」でもないのだが、エピローグを書いた時点が上記のように1998年9月末である。
 すでに25年が経過していいる。
 と言うことはやっぱり、この25年間について簡単にでも記録に残しておく必要があるだろう。

 多分、今の形のホームページになったのは2001年ごろだろうと思う。
 それまでは単にリンクを張るだけで、ホームページの見やすさや統一された体裁を整えることがなかったのだが、友人の作っているホームページを見て、やっぱり体裁を整えねばと思い、2〜3か月かけて今の形にした記憶がある。
 と言うことは、この形って既に22年を経過している形と言うことになる。

 今でもそうなのだが、HTMLを手書きで作っていたものだったからその手間は大変で、ある時に、HEAD部分とBODYの基本的な書式設定を作り上げて、それを他のページにも張り付けていけばいいことに気が付いた。
 これで、ホームページの全面的な変更がかなり容易になったことを覚えている。

 そして2005年7月末で退職してから、比較的、ホームページの更新が減り始めた。
 本来なら「暇」になったので、どんどん更新を続ければ良かったのだが、なかなかそうはならない。
 サラリーマン時代は、貴重な土曜日・日曜日の休暇を使って、畑を手入れし、料理を作り、そしてそれらをもとに必死にホームページを更新した。
 年間52週あるうちで、40周以上をホームページの更新に使っていたような状況だ。
 しかし、退職後は『いつでも更新できる』という思い込みがあって、逆に週一に近い状況での更新ができなくなってしまった。
 それでも2010年ころまでは、年間で十数回、更新をしてきた。

 悲惨な状況を迎えたのは、2010年以降である。
 年数回更新するだけになって、時には年に1回だけの更新と言うこともあった。
 ネットも根強い人気ながら、次第にblogやFACEBOOK、twitterが中心になって、個人の作るホームページが見られなくなってきたような気がする。
 それが如実に表れているのがこの図である。
 これは、我がホームページへのアクセス件数の年別推移である。
 ピークは2010年の34万9355件である。
 この水準は2012年までの3年間を維持できたが、それ以降は急激な落ち込みで、2016年には正式に統計開始以来の最低水準を割り込み、その後はさらに低下を続けてしまっている。
 結局、2021年には2万4827件にまで減少してしまい、この図にはないのだが、2022年は15000件弱であった。

 原因を考えればきりがないのだが
 @上記で言ったようにFACEBOOKやブログが盛んになったこと
 A世間で「ハーブ」に関する興味が薄れたこと、一般化したこと
 B情報が多すぎて、我がホームページにまでたどりつかないこと
 C更新回数が少なく「面白み」がないこと
などがあげられるのではないかと思っている。

 と言うことで、個人のホームページはいずれ消えていくことになるのだろうけど、ホームページを立ち上げた当初は、同じハーブ関係のページが沢山あって、必要に応じて「相互リンク」を張っていた。
 で、2010年以降はそれらのページにリンクが付かなくなり相互リンクはどんどん減っていって、ハーブに関してはもう殆どリンクできていない状況である。
 考えてみれば、2000年代に次々と各地に作られた「ハーブ園」も今は壊滅的状況にある。
 当時のネットでは「メーリングリスト」も流行っていて、ハーブに関するメーリングリストもそれなりの数あって、自分も幾つかのものに参加していた。
 そしてメーリングリストのメンバーで「offの会」なども彼方此方のハーブ園で開催されていたのだが・・・・。

 と言うことなのだが、この「追記」を記載した今日、2023年1月15日現在のアクセス回数は4,298,915回である。
 ちなみに、大台が変わった時点は次のとおりである
 100万台乗せ 2005年12月3日
 200万台乗せ 2009年8月13日
 300万台乗せ 2012年7月21日
 400万台乗せ 2016年8月24日
と言うことで、もしかしたら「500万台乗せ」はちょっと不可能なのかもしれない。

 今日はまだ1月、今年はちょっと頑張って更新回数を増やしてみてその結果を確認しようと思っている。