記事タイトル:石田さんご紹介の如意輪観音、探検記に掲載致しました.
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お名前: MURAhどん
isidaさん、書きこみありがとう。。
昨日の目ん玉庚申探索、お疲れさまでした。
朝から昨日撮ってきた8箇所の庚申塔のデータ整理しているのですが、
見れば見るほど惹かれます.
なんであんな風貌なのか、上手いのや下手糞なのが混じってるし、、
翁さんに戴いた資料を読みながら、想像を巡らしております。
[2000年12月24日 12時41分55秒]
お名前: isida
遠藤 様
ご意見ありがとうございました。
もとより、私もあの如意輪墓が寛永期のものとは思っておりません。周辺の石仏状況から
寛文前後の造立かと考えるのですが、男性の戒名が刻まれておりましたので貴重な1パーセ
ント! 「これは一大事」とMURAさんに写真を送ってしまった訳です。
私も結構、如意輪観音にはうるさいほうで、関宿町にもいろいろな如意輪(隠れキリシタン
のぬれぎぬをきせられた如意輪や、正保の墓碑銘をもつ素朴で指がやたらに長い如意輪)を
確認しておりますので、是非一度おいで下さい。ご案内いたします。
[2000年12月21日 8時21分36秒]
お名前: あっ!!そうだ、、、MURAhどん
石田さんも発見者として、なんかコメント書いてね.m(__)m
メールだけよりも、掲示板のほうが皆が見れて勉強になりまする。
勝手申し放題MURAhどん
[2000年12月15日 21時46分6秒]
お名前: MURAhどん
遠藤さん、早速の書き込み有難うございます。
確かに墓標だと、後から造立って事が一般的なんでしょうね。。。
又十九夜塔も利根川をチョコッと上った加須市辺りでは、
もっと古いんですよね.
石田さんや遠藤さんのお陰で、MURAhどんサイトも
石仏サイトとしてイッチョ前になっていけそうで、有り難い事です.
石田さんから、明るい写真が届いておりますので、
スピードと画質のジレンマと戦いながら、悪戦苦闘しております。
素晴らしい写真なので、バイト数によっては、資料室のほうに掲載
しようかなとも考えています。
明日はフィールドワーク飯田橋出陣なので、明後日にでもやっつけます。。
レス遅れ気味の MURAhどん (^_^;)
[2000年12月15日 21時42分29秒]
お名前: 遠藤和男
関宿地区の如意輪観音について
寛永は古いですね、しかも二臂で寛永というのは室戸市のものを除いてはじめてですね。ただし墓塔は亡くなった年が書かれるので、必ずしも造立年とは限りません。この墓塔もご夫婦の双銘墓のようですから、ご夫婦が亡くなった後に何年かして立てられたものと思います。私は双銘墓は男性一人のものとは区別していますが、それにしてもかなり少ないものと思います。供養仏として如意輪観音が祀られたのはこの頃はまだ女性のものという意識はなかったが、お地蔵様と同様極楽へ導いてくださる観音様の代表としてと言うこと、または後に亡くなったのがご婦人だからと言うことも考えられます。
十九夜塔が文化三年と言うのも月待ち信仰としても少し遅いような気がしますが、この頃この地域では女人講が大いに盛んになったのでしょう。私の個人的意見としては墓塔や個人的供養仏として如意輪観音が祀られたのが先行したと思っています。
いずれ見に行きたいなと思っています。情報有り難うございました。
[2000年12月13日 10時36分14秒]
お名前: MURAhどん
男性の戒名が刻まれた如意輪観音墓石です。
談話室ノート見ると、男性は1%確率の貴重なものとなります。
又関宿地区では文化三年まで一基も無かった十九夜塔が、
一挙に造立され始めたとの事。
この如意輪が寛永十四だから1637年
文化三年は1806年
関宿だけ見ると、墓石から十九夜へ か !?
皆さんの御意見・感想も聞かせてね…
如意輪特集でもやろうかなぁ。。。MURAhどん
[2000年12月10日 10時7分5秒]
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