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お名前: MURAhどん
To isidaさん
関宿情報、ありがとうございます。
そうですか。幸手の悉皆、やってる方達がいらっしゃったんですね。
調査結果が出るのが楽しみです。
やっぱ、一人だと結構シンドイです。 でわでわ MURAhどん
[2004/02/07 09:04:06]
お名前: MURAhどん
すんません。以下の「丸彫りどん」が抜けておりました。
この丸彫りを加えて寛文延宝で7基ですね。ご指摘有難うございます。
今日の談話室に調査結果持参致します。
(しかし、isikawaさんは凄い\(◎o◎)/!)
108 寛文十二□□ 丸彫 中4-14満福寺 青面金剛 六手(輪棒?・索矛・矢弓) 三猿 奉造立青面金剛 無縁仏内 114-40-28
無縁仏達の中の端っこにおりまして、混雑の中に立っているものですから、下部が
良く確認出来ません。台座の正面に一猿を確認致しますが、両脇が猿のように見える
ようで岩だけのようにも見える。取り敢えず岩の出っ張り具合から三猿としておきま
しょう。(イインダロウカ!? こんないい加減な解説で!(~_~;)
それから八幡神社(戸島255)の山王銘三猿塔は確認出来ませんでした。
他には
162 文 文化六己巳年八月吉日 角柱 戸島255 八幡神社
161 文 嘉永五壬子季九月令日 角柱 戸島255 八幡神社
160 文 安政五戊午年九月吉日 角柱 戸島255 八幡神社
の三基の文字塔に加え、光明真言供養塔一基の合計五基しか確認出来ておりません。
近辺、もう少し調査してみます。
[2004/02/07 09:00:05]
お名前: isikawa
幸手市内では、権現堂にある明暦3年の地蔵庚申が最古ではないでしょうか。
そうした報告を受けています。
勿論、青面金剛は寛文4年が初出で、同じ所に同年の山王銘三猿塔もあるはずです。
青面金剛の寛文12年塔がもう1基中4−14の満福寺にあるのでは。
この塔は昭和61年に見ています。延宝2年塔とともに調べました。
詳しいことは7日の談話室で。
[2004/02/03 10:22:09]
お名前: isida
寒中の調査、誠にご苦労様です…
幸手市初出の青面金剛は寛文四年ですか。江戸川を挟んだ関宿町(合併後・野田市)には
千葉県初出の寛文三年八月の立派な青面金剛があるけど、青面金剛が建ち始めるのはヤッパリ
江戸川流域はこの頃のようですね。
幸手市の石仏調査集団が、ここ数年掛かって調査を終えたようで、総数三千基以上は確認
したらしいですね。間もなく…イヤ、二・三年後には報告書が出るみたい
→団長が言ってたんだから、間違いないと思います!
[2004/02/03 09:55:09]
お名前: MURAhどん
かなぁ??しかも青面金剛像塔。
164基調査済みでして、そろそろ「傾向と分析」に入っても大丈夫でしょう。(*^^)v
初出ですが、
163 寛文四年 船型 青面金剛
日月を陽刻し合掌六手、上の手に矛と棒(蛇かもしれない)、下の手に
矢と弓を持ち岩座の上に立っています。鬼は無し。
残念ながら下部が土中に埋め込まれておりまして、鶏・三猿が不明です。
銘も上部右側に「寛文四甲辰天」左側に「九月吉日」迄確認できますが、
右側下部地面すれすれに「庚」の字を確認するのみで、後不明。。。。
とても残念です。
寛文延宝年間に7基造塔されており、内5基が板碑型の三猿文字塔です。
(以下の通り)
18 寛文十二年十一月十日 板碑型 平野NTT脇 (判読不能)
113 延宝元年□月吉日 板碑型 北1-10正福寺 奉庚申供養待
16 延宝二年寅正月吉日 板碑型 中野神社小幡医院脇 奉納為二世安楽
107 延宝二年甲寅年四月吉祥日 板碑型 中4-14満福寺 為庚申供養諸願成就所
116 延宝三乙卯年十二月十九日 板碑型 北1宝持寺前 奉供養庚申為二世安楽
118 四年(寛文?) 板碑型 北1宝持寺前 上部欠損
いずれもお行儀の良い正面向き、まるまると太ったお猿さん。
113と116は日月が陰刻されており、印象的でした。
三猿は口耳目の順番が多い中、16だけが耳口目の順に並んでいます。
118は陽刻された三猿が見事に残っておりますが、上部がバッサリと欠損。
他は何も解りません。只三猿の形と残った石の形からおそらく寛文延宝の
初期のものと推測されます。
銘文は時代が下がってくると「庚申塔」「庚申供養塔」といった具合に
簡略化されたものになってきますが、上記の通り比較的長めですね。
取り敢えず、ご報告です。
結構纏めるのって、大変(・_・;)ですMURAhどん
[2004/02/01 11:24:48]
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