ブロワ城壁
ロワール河の北のボース地方と南のソロ一ニュ地方の中間に位置するブロワは、ボース地方の小麦と、ロワール河流域地方のぶどう酒、いちこ、球根、野菜などを中心とする農産物の流通の中心地である。
野菜のトップに位置するのはアスパラガスで、ブロワ近郊のヴィヌイユやサン・クロードで始まった栽培は、南のコントルの方面や、土壌の柔らかいソローニュ地方へとひろがっていった。
ブロワは・ロワール河右岸の、河を見おろす小さな丘の突端に建造された起伏の多い都市で、中世の面影をとどめる傾斜の強い曲がりくねった狭い通りが多く、いたるところで階段で結ばれている。
段状に連なる家並は、ブロワで極めて特徴的な三色、すなわち建物のファサードの白、スレート葺きの屋根の青、煉瓦造りの煙突の赤という三つの色彩が織りなす調和に満ちた景観を生み出す。
ブロワ伯爵家からオルレアン公爵家へ
歴代のブロワ伯は、中世では、一方でブロワとシャルトルの各地方を含み、他方ではシャンパーニュ地方を含む二重の集団の頭目として、強力な封建領主であった。
歴代のアンジュー伯や、とりわけブロワ地方の領土の一部をかすめとった恐るべきフールク・ネラなど、近隣の敵の度重なる襲撃にもかかわらず、プロワ伯は強力な王朝を築きあげていった。
ブロワ伯のうちのひとりは、ウィリアム征服王の娘をめとり、息子のエチエンヌは1135年に英国王になった。
その時代つまりチボー四世の頃に、ブロワ家は最盛期を迎えた。
1152年にチボー四世が亡くなると、ブロワ家はシャンパーニュ地方を重視するようになり、ロワール地方と英国とを幾分ないがしろにした。
その結果、英国では1154年、プランタジュネ家がブロワ家にとって代わって支配するようになった。
1234年には聖王ルイがシャンパーニュ伯爵のブロワ伯爵領に対する領主権を買収。
1392年最後のブロワ伯ギ・ド・シャーティヨンがシャルル六世の弟ルイ・ドルレアン公爵にブロワ伯爵領を売却。
それ以降・オルレアン公の宮廷がブロワに置かれることになった。
15年後、ルイ・ドルレアンは、ブルゴーニュの無畏公ジャン(ジャン・サン・プール)の命令により、パリで暗殺されてしまう。
未亡人になったヴァランティーヌ・ヴィスコンティはブロワにひきこもり、「私にはもはや何もなく、いま以上のことは私にとって無に等しい」という絶望的な銘句を壁に刻み、翌年悲嘆にくれて死んだ。
詩人シャルル・ドルレアン(15世紀)
ルイ・ドルレアンの長子シャルルはブロワ城を相続し、青春時代の一時期をそこで過こした。
15歳でシャルル六世の娘と結婚したが、彼女は産褥で亡くなり、20歳で再婚。
英国軍との戦いに従軍したが、アザンクールの戦いで大敗を喫し、捕虜となる。
しかし、その詩的霊感のおかげで、25年に及ぶ捕囚の歳月を耐え忍ぶことができた。
1440年にフランスに戻った彼は、またしてもやもめとなり、50歳で14歳のマリー・ド・クレーヴと結婚した。
ブロワ城は彼のお気に入りの住居であった。
そこで古い要塞の一部を取壊し、いっそう住み心地のよい建物を建てた。
シャルル・ドルレアンのまわりには、フランソワ・ヴィヨンのような詩人・芸術家の取巻きが何人かいた。
自らも見事なロンドーをつくっている。
時は風と寒気と雨のそのコートを脱ぎ捨て、明るく美しく輝く太陽の刺繍を身にまとう大きな喜びが晩年の彼に訪れる。
71歳にして遂に患子を持った。
後のフランス国王ルイ十二世だ。
ルネッサンスの黄金時代
1462年ブロワに生まれたルイ十二世が、1498年シャルル八世の後を継いで王位に即き、ブロワはアンボワーズにとって代わって王の居住地になった。
ルイ十二世とその王妃アンヌ・ド・ブルターニュはプロワ城が気に入り、大規模な改造を行った。翼棟をひとつと、アンボワーズのイタリア人造園家に設計させた広大なテラス式庭園とを造営させたのである。
この庭園は現在のヴィクトル・ユゴー広場の駅側の場所にあった。
アンヌ王妃は途方もない数の供回り(貴婦人、小姓、近習、衛兵など)を従えていて、身辺には重厚で絢爛豪華な雰囲気がたちこめていた。
王妃が1514年1月9日に息を引きとると、国王はすぐさま15歳の英国の王女と再婚するが、男子をもうけることなく、1515年1月1日パリで亡くなってしまった。
なおルイ十二世はブロワでフランス慣習法典を編纂させている。
そのあと、今度はフランソワー世がブロワ城に住み、アンボワーズ城と王の好みを分かつことになった。
建築家のジャック・スールドーに命じて、国王はこの城で最も美しい翼棟を再建させた。
この翼棟はフランソワー世翼棟と呼ばれる。
王妃のクロード・ド・フランスは前王の王女で、自分が育ったブロワ城に深い愛着を抱いていたが、8年の間に7人もの子供を生んだあと、1524年、僅か25歳で病没した。
フランソワー世はイタリアで戦っていたため、1526年11月にようやく亡き王妃の葬儀を行うことができた。
そのうえ、この日以後王はブロワを見捨ててしまったのである。
ギーズ公爵の暗殺(1588年)
ブロワ城をめぐる歴史上の興昧が頂点に達するのはアンリ三世の治世下であった。
三部会が2度にわたってブロワで開催されたし、1576年には、この地でプロテスタントの信奉する新教の廃止の要請がなされた。
1588年、旧教同盟の盟主であり、スペイン王に支持されて、パリで絶対的な権勢を誇っていた、
王国総代官のアンリ・ド・ギ一ズ(1550〜88)が、2度目の三部会を召集するよう国王アンリ三世に強制した。
この三部会には500人の代議員が参加したが、そのほとんど全員が、王の廃位もしくは王の完全な服従を決議させようと考えていたギーズ公の手中にあった。
破滅の淵に立たされていることを感じたアンリ三世は、政敵を取除くためにはもはや暗殺しかないと悟った。
暗殺はブロワ城内の3階で実行に移された。
こうして活気を取戻すことのできた王は「やっと、余は国王になったのだ/」と叫んだという。
しかし、8ヵ月後、アンリ三世もジャック・クレマンの刃の下に斃れた。
陰謀家ガストン・ドルレアン(17世記)
1617年、マリー・ド・メディシスは、自分の患子のルイ十三世によって、ブロワ城に追放された。
王太后の腹心であったリシュリューは王太后の宮廷の中心人物であったが、この未来の枢機卿は陰謀を企て、リュソンにのがれて、野心実現の好機をうかがった。
1619年2月22日、メディシス王太后は逃亡する。
肥満体であるにもかかわらず、彼女は夜間縄ばしごで濠に降りたものと思われる。
この壮挙の後、リシュリューの仲介で王太后と王は和解する。
1626年、ルイ十三世は、絶対的な権力をもつ枢機卿と対立する王弟のガストン・ドルレアンGas-tond'0rleansを遠ざけるため、ブロワ伯爵領と、オルレアンおよびシャルトルの両公爵領を弟に与えた。
行動的な彼はほどなく、これらの所領に飽き、新たに陰謀を企みはじめた。
だが移り気なために計画を最後までやりとげることはできなかった。
ある日、彼はリシュリューを殺す気になる。
が、翌日にはリシュリューと和解する……といった具合である。
追放され、フランスに戻り、陰謀を企てまたフランスを去る、といったことを彼は繰返した。
1634年国王と和解した彼は、ようやくブロワの壮大な改造計画に専念することができるようになった。
彼はマンサールに助力を求め、広大な建造物の設計を命じ、古い案を白紙にかえすことになった。
1635年から1637年にかけて新しい居住棟が建てられたが、助成金が不足したため工事は中断を余儀なくされた。
王太子ルイの誕生後、リシュリューは王弟殿下に気を遣う必要がなくなったからである。
そこで、陰謀好きのガストン・ドルレアンはふたたび動きはじめ、1642年、ブイヨン公爵とサン・マール侯爵の陰謀に加担する。
有罪判決は免れたものの、彼は王位継承権を夫うことになった。
1650年から1653年にかけても、宰相マザランに反抗したフロンドの乱で積極的な役割を演じた。
この新たな失敗の結果、自領に追放されて、ようやくおとなしくなった。
彼はフランソワー世翼棟に住み、庭冨を美化し、1660年、廷臣たちに囲まれて模範的な死を迎えたのであった。
城塞広場
この広大な前庭は、城塞の馬や供回り用の「中庭」であったところ。
少し低くなった雛壇式の庭園からは、城下町の家々の屋根が連なっているのが見渡され、そのうしろにロワール河と河に架かる橋が見え、擁壁の足下にはルイ十二世広場、右手にはサン・ニコラ教会の尖塔がそびえたち、左手の端にはルネッサンス様式の塔をもつ大聖堂がくっきりと浮かびあがる、という広大な展望が得られる。
広場に面した城館の正面は二つの主要部分から成り立っている。
右手は封建時代の旧城塞(13世紀)の名残である三部会室@の先端の尖った切妻壁、その他の部分はルイ十二世が造営した煉瓦と石でつくられた美しい建物D。
後者の建物部分でも、開口部は依然として中世の見事な着想による。
2階のふたつの窓にはバルコニーがついている。
左手の窓はルイ十二世の寝室のもの。
ルイ十二世の宰相であったアンボワーズ枢機卿は隣接する館に住んでいたが、この建物は1940年6月に破壊され、再建されたもののあまり出来栄えはよくない。
国王と枢機卿はバルコニーで涼をとりながら、打ち解けた話を交わしていたのである。
フランボワイヤン(火炎式〕ゴチック様式の大きなポルタイユ(扉口)の上には壁龕が設けられ、ルイ十二世の騎馬像(1857年に彫刻家スールが制作したものの複製)が置かれている。
窓では彫刻を施した逆ピラミッド形の装飾が精彩を放っている。
この時代の自然な陽気さが、時として、ごく素直に表現されている(入口の左の1番目と4番目の窓)。
城塞内庭
内庭を横切り、魅力あふれるテラスまで行く(サン・ニコラ教会とロワール河のすばらしい眺め)。
テラスの上には、封建時代の城壁の一部であったル・フォワの塔tour du FoixAがそびえ立っている。
城の翼棟群に囲まれた内庭に戻る。
サン・カレー礼拝堂
ルイ十二世が、前からあった礼拝堂の代わりに再建させたのがこの礼拝堂。
この国王専用のサン・カレー礼拝堂Cは、今ではゴチック様式の内陣しか残っていない。
マンサールがガストン・ドルレアン翼棟を建造した時に、身廊部分を取壊してしまったからである。
マックス・アングランが制作した現代のステンドグラスは、聖カレーの生涯を描いたものである。
シャルル・ドルレアンの回廊B
最近の研究によると、この回廊はルイ十二世時代のものであることが判明した。
19世紀までは現在の2倍の長さがあり、内庭の奥の建物群まで続いていた。
この回廊は、非常に扁平な三心アーチ群で支えられている。
ルイ十二世翼棟D
この翼棟には居住棟内の異なる部屋に通じる回廊がある。
これは快適さの面で新たな進歩を示すものであった。
それまでの城では、一つの部屋を通らなければ他の部屋に行けない構造になっていたからである。
翼棟の両端にはそれぞれ塔の中に螺旋階段があり、上の階に通じている。
装飾は豊か。
イタリア風のアラベスク(唐草模様)のパネルが列柱に登場する。
フランソワー世翼棟E
この建物はガストン・ドルレアン翼棟(17世紀)と三部会室(13世紀)@との間にひろがっている。
ルイ十二世翼棟の完成とフランソワ一世翼棟の着工との間には僅かに14年の隔りしかないが、両者の様式の間には飛躍的な発展が認められる。
装飾の分野ではイタリア様式が勝利をおさめた。
しかし、建築様式の面では依然としてフランス的発想が維持されている。
窓の位置は、対称形に対する配慮を無視して建物内部の部屋に対応しており、時には間隔がせばまり、時にはへだたっている。
窓枠の交差部も二重になっている場合と一重の場合とがあるし、付け柱が窓の両脇にあったり梁間の中央にあったりする。
壮麗な階段がひとつ建物のファサード(正面)に加えられた。
マンサールが後にガストン・ドルレアンの居住棟をおさめるためフランソワ一世翼棟の一部を取壊した結果、以後、階段の位置はファサードの中央ではなくなってしまった。
この階段はファサードに半ば埋没した八角形の階段室の中にある。
建築的にも彫刻的にも傑作といえるこの階段は、絢爛豪華なレセプションのために構想されたもので、階段室の支え壁がくり抜かれて一連のバルコニー群を形成しており、要人が到着すると、宮廷の人びとはそこから見物したのである。
装飾は手がこんでいて多彩をきわめ、国王を象徴する紋章群が、ルネッサンス時代によく用いられたすべてのモチーフと共に使用されている。
ガストン・ドルレアン翼棟F
マンサールにより1635年から1638年にかけて造られた古典様式のこの建造物は、ブロワワ城のその他の建物と好対照を示している。
城の内庭から眺めた場合、この対比はガストン・ドルレアン翼棟にとって不利に働く。
この翼棟を公正に判断するためには、外側から眺めて計画された全体像を思い描くべきである。
翼棟の内部には、正面階段の上に、張り出した回廊を横切る形で円天井が見え、高さを強調する効果がある。
この円天井には、下部を除き、武器装飾、花飾り、怪人面などの彫刻が施されている。
フランソワー世翼棟の居室群
内庭からフランソワー世の階段をのぼって2階に行く。
いくつかの部屋には、豪華な暖炉とか、タピスリー、胸像や肖像画、若干の家具などが見られる。
室内装飾は、19世紀にデュバンの手で完全に改装されたもの。
歴代の王のもとで、暖炉や照明用の蟻燭と松明などから出る煙が、装飾全体を煤けさせてしまったからである。
2階
この階の中で最も興昧深いのは、カトリーヌ・ド・メディシスの小部屋である。
237枚の木彫羽目板の一部には秘密の戸棚が隠されている。
アレクサンドル・デュマによれば、これらの秘密戸棚は毒薬用とされているが、実際には、むしろ宝石や国事文書をおさめるためか、単にイタリアの小部屋にしばしば見られる壁に戸棚をはめこむ様式をとりいれただけのものであったと思われる。
秘密戸棚は、腰板内に隠されたペダルを踏んで開ける仕掛けになっている。
3階
この階は件の暗殺事件が実行された階である。
ギーズ公の暗殺以降、3階の各室は改装され、国王の執務室は17世紀に建てられたガストン・ドルレアン翼棟に吸収されてしまった。
したがって、暗殺の跡を実地にたどることは難しい。
以下の物語は、その時代の人びとの証言による。
時は1588年12月23日、午前8時頃のことであった。
アンリ三世が掌握していた恵まれない45人の貴族のなかから、公爵を倒すために20人が選ばれていた。
うち8人はマントの下に短刀を隠しもち王の寝室に待機していた。
長持の上に腰をおろした彼らは和やかに談笑しているように見受けられた。
司祭がふたり、新執務室の小礼拝室にいた。
王は企てが成功するよう、彼らに祈らせていたのである。
ギーズ公は、数人の身分の高い人物とともに国務会議の間にいた。
ほとんど一晩中、「女官遊撃隊escadronvo1ant」(カトリーヌ・ド・メディシスを取巻く若い女官の集団で政略に活躍した)のひとりのもとで過こしたあと、6時に起床したので、公爵は寒さと空腹を覚えていた。
ひとまず暖炉で暖をとり、ボンボン入れに入っていたプラムを数個かじった。
それから国務会議が始まった。
その時、アンリ三世の秘書官がギーズ公に対し、国王が旧執務室に来るように言っていると伝えた。
この小部屋に行くためには、国王の寝室を横切って行かねばならなかった。
というのも2日前に、旧執務室と国務会議の間との間の扉がふさがれていたからである。
公爵が国王の寝室に入って行くと、刺客たちが挨拶をした。
公爵は左のほうに進んだ。
旧執務室の前には廊下があった。
ギーズ公が扉を開けると、細長い通路の奥に剣を手にして彼を待ち伏せしている数個の人影を認めたので引返そうとしたが、寝室にいた8人の男が退路をふさいだ。
彼らはギーズ公に襲いかかり、両手両足を押えつけ、彼のコートで剣をくるんでしまった。
驚嘆すべき力の持主であった公爵は、ボンボン入れで刺客のうちの4人を倒し、5人目に傷を負わせた。
彼は、襲撃者の一団を王の寝室のはずれまでひきずって行ったが、めった突きにされて、王のベッドのところまで戻り、「神よ、われを憐み給え」という言葉を口にして倒れた。
壁掛けのうしろに隠れていたアンリ三世は、そこから出て来てライバルのほうに進み出た。
彼はギーズ公に平手打ちをくわせたかったのだろうが、「何と彼は偉大なんだ。生前より一層偉大にみえる!」と叫んだ。
遺体を念入りに調べると、一通の手紙が見つかった。
そこには、「フランスでの内戦をもちこたえるためには、毎月70万リーブルが必要だという文言が含まれていた。
そのあと国王は母のカトリーヌ・ド・メディシスのところにおりて行き、嬉しそうにこう言った。
「私の相手はもういなくなりました。
パリの王は死んだのです。」するとカトリーヌは、「神様は、あなたがくだらぬ輩の王にならないようにとお望みだったのでは」と言い返した。
別の言い伝えによると、彼女は無言のままであったという。
良心の呵責を鎮めるため、アンリ三世はサン・カレー礼拝堂に赴いて、神に感謝の祈りを捧げるミサに参列した。
翌日、公爵暗殺の直後に投獄されていた公爵の弟ロレーヌ枢機卿が暗殺された。
遺体はギーズ公の遺体と共に城内に置かれたが、場所は不明である。
そのあと遺体は焼かれ、遺灰はロワール河に投げ込まれた。
王太后はこの惨劇のあと長くは生きのびられず、12日ほど後に息を引き取った。
大階段を通って2階に戻り、衛兵の間をふたたび横切って行く。
三部会室@
城内で最古の部分(13世紀)で、ブロワ伯爵家の旧城の領主の間であったところ。
この広間で、1576年と1588年の2回にわたって三部会が開催された。
中央に並ぶ円柱の上に並置された二つの半円筒ボールト式の円天井がある。
城の内庭に出る。