シノン城壁
シノンはぶどう酒の生産で名高い地方の中心に位置し、肥沃なヴェロン地方pays de Veronと美しいシノンの森に囲まれている。
観光客にとってこの町は、中世都市の魅力を失っておらず、城塞の廃墟と化した城壁の下にひろがる城下町は、毎年開かれる中世市では生気を取戻す。
南からこの町に近づくと、ヴィエンヌ河畔の小さな丘の上にそびえる城塞と、その下に展開する城下町が生み出すユニークな景勝地の見事な眺望が得られる。
この眺望を細部にわたって楽しむためには、橋の手前のダントン河岸Quai Dantonに車を止めるとよい。
この地点からは、城塞のさまざまな部分をはっきり見わけることができる。
左端にはル・クードレーの砦。
中央には中央城塞が、屋根と石落としをもつ幅の狭い時計塔まで続いている。
右手にはサン・ジョルジュ砦があったが、取壊されて現存しない。
シノンの楽しみのひとつに、ヴィエンヌ河畔の散策をあげることができる。
特に英国式庭園が素晴らしいが、そこに植えられている棕櫚の木がロワール河流域の気候の温暖さを物語っている。
ガルガンチュアの生みの親
シノン近郊のドヴィニエールに生まれたフランソワ・ラブレー(1494-1553)は、幼少時代をシノンで週こした。
両親がランプロワ通りRue de laLamproieに1軒の家を持っていたからである。
彼はパンタグリュエルとその父のガルガンチュアというふたりの巨人の冒険を活々と描き、巨人たちの奔放な振舞いが読者の心を惹きつけている。
たとえば、ガルガンチュアは、生まれ落ちた時、産声の代わりに「飲みた一い、飲みた一い」と叫び、そのあと、1万7913頭の牝牛の乳を飲んで急速に成長を遂げ、「見事な赤ら顔と、ほぼ18の顎を持つ」にいたったのである。
並外れた大宴会や酒盛が大好きなこのお人好しの巨人たちは、シノンの特産ワインを酒蔵で試飲する際に、よ<話題になる。
シノンには、ガリア・ローマ時代に砦があり、次いで歴代のブロワ伯の城塞が設けられたが、11世紀に、ブロワ伯の敵手のアンジュー伯の手に落ちた。
アンジュー伯のひとりであったアンリ・プランタジュネニ世は、現存する城塞の基幹部分を造営し、次いで1154年に英国王ヘンリー・プランタジネットニ世になった。
英国王になった後も、英国の大陸内所領の中心に位置するシノンは、ヘンリー二世が好んで滞在する居城のひとつとして存続した。
ヘンリー二世は1189年7月6日当地で亡くなっている。
1154年から1204年にかけて、アンジュー伯の支配下で、シノンは繁栄した。
封土を失った封臣、欠地王ジャン(ジョン)
ヘンリー二世の息子のジャンは、兄の獅子心王リチャードが1199年シャーリュCha1usの戦いで戦死したので、プランタジネット王朝の王位を継いだ。
しかし、その狡猾な性格や卑劣な策謀のため、多くの人々の反感を買った。
まず、彼は甥のアルチュール・ド・ブルターニュと喧曄をし、アルチュールはフランスの宮廷に避難した。
次に、彼はマルシュ伯爵の婚約者イザベル・ダングーレームをさらい、1200年8月30日シノンで結婚式をあげた。
宗主のこの振舞いに不満を抱いたポワトゥー地方の大領主たちは、パリの宮廷に彼を訴えた。
ジャンはこの訴訟に応じるのを拒否し、フランスの封土没収の刑を宣告された。
その結果、彼はもはやイングランドの王でしかなくなり、他方フィリップ・オーギュストがフランスにあったジャンのすべての要塞をひとつずつ奪回していった。
こうして、1205年シノンはフランスの王領になった。
ジャンは抵抗を試みたが無駄に終わり、1206年10月26日の休戦協定により失地の回復を断念せざるを得なくなった。
それでも彼は復讐を試み、1213年、フィリップ・オーギュストに対抗する英独連合に参加した。
翌年、彼はアンジェ近郊のロシュ・オー・モワーヌの合戦で未来のルイ八世に破れた。
1214年9月18日に締結されたシノン条約によってイングランドの敗北は決定的になった。
いみじくも失地王と名づけられたジャンは、その2年後、王国のすべての大領主に不満を抱かせたまま死去した。
「ブールジュ王」の宮廷(15世紀初頭)
シャルル七世と共に、シノンの歴史には感動的なぺ一ジが加わった。
当時、フランスは危機的な状況下にあった。
イングランド王ヘンリー六世が「フランス王」を兼ねており、1427年に、シャルル七世がシノンに小さな宮廷を置いた時、彼は「ブールジュ王」に過ぎなかったのである。
翌年、シャルル七世は、当時その権威下にあった、中部フランスと南部フランスの地方三部会をシノンに招集した。
三部会は、英国軍に包囲されていたオルレアンを防衛するため、40万リーヴルの支出を可決した。
シノンのジャンヌ・ダルク(1429年)
ジャンヌは、6名の兵士に護衛されて、ロレーヌ地方からシノンヘの旅を行ったが、途中、国中を荒らしていた武装盗賊の群れに遭遇することは全くなかった。
3月6日に彼女がシノンに到着した時、人々はそこに神の御加護の明白な印を見た。
王に拝謁を許されるまで待っている間、彼女は町の旅籠で断食と祈りの2日間を過こした。
18歳の田舎娘を王宮に案内する際、人々は彼女を狼狽させようと試みた。
大広間には50本の松明がともされ、華やかな装いを身にまとった300人の廷臣が参集していた。
王は人混みの中に隠れ、廷臣のひとりが王の衣裳を身にまとっていた。
ジャンヌはおずおずと前に進み出て、すぐさま本当のシャルル七世を見抜き、まっすぐ王のところに行った。
彼は自分は王ではないと言い張ったが、ジャンヌは彼の膝に接吻して、「気高い王太子さま」といった。
シャルルはまだ国王として聖別されていなかったので、彼女にとってシャルルは王太子に他ならなかったのである。
「私の名は、乙女ジャンヌと申します。
天界の王である神様が、私を介して、殿下がランスの町で聖別され、戴冠され、フランスの王であらせられます天界の王の代官になられるであろうとのお告げをなされたのです。」シャルルは自分の出生について疑念を抱きつづけていた。
母親のイザボー・ド・バヴィエールの不品行がスキャンダルになるほどひどかったからである。
「救世主キリストに代わって申し上げますが、あなたはフランスの王位継承者であり、王様の本当のお子様です」と、乙女ジャンヌから言われて、シャルルはすっかり晴れ晴れとした気分になり、このヒロインの使命を認めようとする気持に傾いた。
しかし、取巻き連中はなおも低抗を続け、この少女をポワチエの法廷に出頭させた。
医師と法廷の指名により女性の検査にあたる産婆とから成る専門家会議が、彼女が魔法使いであるかそれとも神から霊感をさずかった者であるかを判定することになった。
人々は3週間にわたうて彼女を尋問したのである。
彼女の素朴な回答と、きびきびした当意即妙の受け答えぶり、敬虔な態度、神の加護に対する信頼などが、最も壊疑的な人々の疑念を晴らした。
こうして彼女は「神の使者」として認められることになった。
彼女がシノンに戻ると、人々は彼女のために装備を整え、兵士を与えた。
1429年4月20日、彼女は奇跡に満ちた悲劇的な運命を成就するために出発したのであった。
乙女ジャンヌと申します。
天界の王である神様が、私を介して、殿下がランスの町で聖別され、戴冠され、フランスの王であらせられます天界の王の代官になられるであろうとのお告げをなされた
のです。」シャルルは自分の出生について疑念を抱きつづけていた。
母親のイザボー・ド・バヴィエールの不品行がスキャンダルになるほどひどかったからである。
「救世主キリストに代わって申し上げますが、あなたはフランスの王位継承者であり、王様の本当のお子様です」と、乙女ジャンヌから言われて、シャルルはすっかり晴れ晴れとした気分になり、このヒロインの使命を認めようとする気持に傾いた。
しかし、取巻き連中はなおも低抗を続け、この少女をポワチエの法廷に出頭させた。
医師と法廷の指名により女性の検査にあたる産婆とから成る専門家会議が、彼女が魔法使いであるかそれとも神から霊感をさずかった者であるかを判定することになった。
人々は3週間にわたうて彼女を尋問したのである。
彼女の素朴な回答と、きびきびした当意即妙の受け答えぶり、敬虔な態度、神の加護に対する信頼などが、最も壊疑的な人々の疑念を晴らした。
こうして彼女は「神の使者」として認められることになった。
彼女がシノンに戻ると、人々は彼女のために装備を整え、兵士を与えた。
1429年4月20日、彼女は奇跡に満ちた悲劇的な運命を成就するために出発したのであった。
見学:所要時間45分
シノンの旧市街は、かつて城壁で囲まれており、「要塞都市」の名にふさわしい存在であった。
ヴィエンヌ川の河岸と城塞の急斜面との間に、尖った屋根と曲がりくねった小路がひしめき合っているこの街区には、中世の家屋が数多く残されていて、彫刻を施された梁を持つ木組みの素地のファサード、小塔を両側に配した石造の切妻壁、中方立のある窓、彫刻のある戸口といった個性豊かな細部が目を惹く。
ド・ゴール将軍広場 Place du General-de-Gaulleから旧市街見物に出発する。
昔はオート・サン・モーリス通りRue Haute St-Mauriceと呼ばれていたヴォルテール通り Rue Voltaireに入る。
これは旧市街の基軸になる通りである。
ぶどう酒と酒樽製造業実演博物館
力一ヴ(酒蔵)の中に設置されたこの博物館は、実物大のロボットと録音テープによる解説を用いて、ぶどう畑の農作業や、ぶどう酒の醸造、大酒樽製造の模様を見せてくれる。
彩色酒蔵通りRue des Caves-Peintesは丘に向かって切通しになっていて、その突当たりに彩色酒蔵がある。
パンタグリュエルが爽かなぶどう酒を何杯も飲み干したとラブレーが物語っている酒蔵である。
描かれていた絵は消え失せてしまったが、昔の石切り場であったこの場所は、ラブレー以来常に徳利大明神の聖堂であり続けた。
というのも、「ラブレー式がぶ飲み友の会」の盛大な叙任式がここで定期的にとり行われているからである。
ヴォルテール通りの19番地にある14世紀の木組み素地造りの家に注目のこと。
そのすこし先から、城塞まで急勾配でのぼって行くジャンヌ・ダルク通りが始まる。
伝承によれば、シノンに着いたジャンヌ・ダルクが馬からおりる時足を置いたという井戸を示す銘板がある。
トルトリュー・ド・ランガルディエール館(18世紀)。
ジャンヌ・ダルク通りRue Jeanne-dIArc。
錬鉄製の美しいバルコニーのある古典様式のファサードを持っている。
グラン・カロワ(大四辻)
名前のわりには道幅が狭いように思われるが、中世にはここが村の中心で、旧ガリア街道にあたるオート・サン・モーリス通りと、ヴィエンヌ川にかかる橋までおりて行くグラン・カロワ通りの交差点であった。ここを舞台に毎年、「中世市」の祭典がある。
その時には、家々の絵のように美しい中庭が公開される。
旧市街で最も美しい家屋がこのあたりに軒を連ねている。
例えば、ポワチエ共済組合が入っている38番地の「赤い家」Maison Rouge(14世紀)は、煉瓦を埋めこんだ木骨壁造りで、2階以上が持出し構造になっている。
45番地にあるもう1軒の木骨壁の建物は職人たちの母(代官夫人)の家だったもので、彫像柱で飾られている。
44番地の三部会館(15〜16世紀)は、石造の美しい建物で、古シノン博物館が入っている。
48番地の政務館(17世紀)の石造の大きな門の奥には、優雅なアーケードをもった中庭がある。
国王代官所
オート・サン・モーリス通り73番地。
現在ガルガンチュア・ホテルになっているこの建物では、ジャック・クール通り Rue Jacques-Coeurに面した南側のファサードや、持出し構造の綺麗な小塔、縮れキャベツ模様に縁どられた切妻壁の勾配などに注目のこと。
サン・モーリス教会(12〜16世紀)
身廊と聖歌隊席に純粋なアンジュー様式の尖頭ボールトがあり、中ぶくらみが目立つ。
すこし先の、オート・サン・モーリス通りRue Haute St-Mauriceの81番地にあるボダール・ド・ラ・ジャコピエール館 Hotel Bodard de la Jacopierre(15,16世紀)のファサードには、鋲を打ち込んだ市門(15世紀)が見られ、82番地の水利森林館Hotel des Eaux et Forets(16世紀)には隅に風変わりな小塔があり、優美な屋根窓が見もの。
古シノン・河川水運行博物館
この建物は、昔の三部会館で、リムーザン地方のシャーリュの攻防戦で負傷した獅子心王リチャードが、1199年に息を引取ったところ。
また1428年には、シャルル七世が、英国軍との戦いを続行する資金を獲得するために三部会を召集している。
1階の大部分は、民芸と民間伝承に充てられている。
ドラクロワによるラブレーの全身像がある
2階の貴賓室や船底型の木組をもった3階のホールに代表されるような、数々の見事な部屋には、地方史学会の収集品がおさめられている。
ランジェを含むロワール地方各地の陶器の他に、十字軍の時代に聖地から持ち帰った聖メクスムの長袍祭服、ゴチック様式の櫃、数多くの木彫聖処女像などが見もの。
展示品によってヴィエンヌ川とロワール河の水運業の歴史をたどることができるうえ、船舶、はしけ、伝馬船、樅材の平底川舟の模型が見学者の興昧を惹く。
見学:所要1時間
城塞の北面にそそり立っている頑丈な城壁の下のトゥール街道を通って城にたどり着く。
シノン台地の、ヴィエンヌ川の方に突き出した山脚上に築かれたこの広大な要塞(幅400m、奥行70m)の主要部分はアンリ・プランタジュネニ世の時代(12世紀)のもの。
15世紀以降宮廷に見捨てられたこの城は、17世紀にリシュリュー枢機卿が買い取ったが、その後徐々に取壊され、19世紀に歴史的記念建造物総監督官のプロスペール・メリメが保護に乗り出す時までその状況が続いた。
この城塞の壮大な廃嘘は8世紀の歳月の流れを反映している。
サン・ジョルジュ砦
城塞の東端に位置するこの砦は、現在取壊されているが、台地から近づくことのできるシノン城のもろい部分の守りを固めていたもの。
中央城塞
最初の空濠をわたり、14世紀に建造された並外れて厚さが薄い(5mしかない)、背の高い時計塔tour de l`horlogeを通り抜けて中央城塞に入る。
時計塔の内部の四つの部屋は、ジャンヌ・ダルクの生涯の主な節目節目を想い起こさせてくれる。
てっぺんの小頂塔にあるマリー・ジャヴェルと呼ばれる1399年製の鐘は、今も時を告げている。
庭園と、城壁内のいくつかの塔は自由見学。
南の稜堡壁からの眺望は素晴らしく、旧市街のスレート葺きの屋根、ヴィエンヌ川とその河畔の景色を見渡すことができる。
ル・クードレー砦
中央城塞の庭園の西側の空壕にかかる第2の橋を渡ると、台地の突出部の先端に位置するル・クードレー砦になる。
橋の右手にあるル・クードレーとよばれるドンジョン(主塔)は13世紀の初頭にフィリップ・オーギュストが建造したもの。
1308年には、フィリップ美貌王が聖堂(タンプル)騎士団員をこのドンジョンに拘禁させている。
1階のホールでは、現在の入口の北の壁面に、これらの囚人たちが石に刻んだひっ掻き文字を今なお読みとることができる。
現在では青天井になっているが、この塔の上階の部屋には、1429年に、ジャンヌ・ダルクが滞在している。
王室居住塔
この建物の2階にはジャンヌ・ダルクを迎えた大広間があったが、今では暖炉しか残っていない。
1階の衛兵の間には、15世紀の状態に復元された城全体の大きな模型が展示されている。
台所には、ジャンヌ・ダルクが王太子を識別する情景を描いたオービュッソン製の美しいタピスリー(17世紀)と熊狩とパリスの審判を描いた2面のフランドル製タピスリー(16,17世紀)がかかっている。
小さな石彫陳列室を見たあと、ポワシー塔tour de Boissy(13世紀)で見学は終わる。
塔内の、かつて礼拝室として利用されていた円天井付きの一室には、カペ、ヴァロワ、プランタジュネの各王朝の系図のほか、ジャンヌ・ダルクがシノンに到着した時に、シャルル王太子が置かれていた状況を明示する1420年のフランス地図がある。