野田城址A  場所の地図

 約4年半前に野田城址を訪れた時(【平成24年1月12日(木):第270号】参照)は、鬱蒼とした林の中に、「野田城址」という石碑と城址の入口に二つの説明看板があるだけとの記憶でしたが、改めて今回訪れると、かなり城址が整備されていました。
 また南側の城址への登り口には、新城市観光学会による次の説明看板がありました。

 永正5(1508)年、菅沼新八郎定則(田峯城主・菅沼定忠の三男)が築城。天文13(1544)年二代目定村が家督を継ぐ。弘治元(1555)年定村は雨山の戦いで討死
、三代目定盈(さだみつ)が相続する。元亀2(1571)年武田信玄襲来、定盈は大野田城に火を放って西郷へ退く。武田勢は兵を納めて帰国。定盈は上州阿保に1万石で移封される。
○城の形は段丘城で遺構には「曲輪、空堀、碑、説明板」がある。
○”明笛の響き”の云われ・・・・・・・・・元亀4(1573)年、野田の戦いの時、伊勢山田の笛の名手、村松芳休が城内で夜毎笛を吹いた、2月9日の夜、武田信玄が妙なる音色に聞き惚れて堀端に来た所を城中の鉄砲の名手、鳥井半四郎が引き金を引くと「大将が撃たれた」と云う声が揚がり敵陣が動揺した。翌日和議の矢文が城中へ届いたという。これが基で武田勢は甲州に引き上げ、途中の信州駒場で信玄は息を引き取ったと謂われている。
     新城観光学会   平成21(2009)年11月吉日

 城址は、きれいに整備されており、井戸や信玄狙撃場所の案内表示もあります。また城址内に野田城稲荷の鳥居や祠も真新しく整備されています。この城址内でいろいろなイベントが催され、地域おこしにつながっているようです。

二の丸跡の表示 西側からの城址入口 野田城址の石碑
野田城址遠景 信玄公、狙撃場所 城内の井戸
井戸を上から眺める 野田城稲荷遠景 野田城稲荷近景
≪平成28(2016)年1月5日撮影≫

                  釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成28年1月7日(木):第1726号】