慈昌院(石橋城址)  場所の地図

 【平成25年2月6日(水):第661号】で紹介した「道の駅 つくで手作り村」の西側に、今日紹介する「慈昌院(石橋城址)」があります。
 作手村(源新城市)の説明看板には、石橋城址について、次のように紹介されていました。

 石橋城址(弾正屋敷)  作手村(現新城市)

 所在地 作手村大字清岳(現新城市作手清岳)字屋敷
 立  地 段丘上・標高520m
 規  模 40m×40m

 石橋城は、奥平2代貞久の二男、弾正久勝が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、3代貞昌の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌は、天文6(1537)年9月、主君への謀反が露見し、4代貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死にた。
 死骸は一穴に埋められて、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。
 後年になり、当山第2世が繁昌と一族の死を哀れみ、亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。

 この説明のように、城址それぞれに悲しい歴史が存在します。現在は、美しい臨済宗永源寺派の寺院になっており、歴史の変遷を物語っています。

慈昌院の山門並びに石橋城址入口 慈昌院本堂
≪平成25(2013)年2月3日撮影≫

 釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成25年2月13日(水):第668号】