矢作川用水 北野取入口  場所の地図

 岡崎市北野地区に矢作川用水の取入口があります。そして用水路が地下に埋めこまれたため、その上部が整地され、公園化されています。そこに今日紹介するモニュメントがありました。
 取入口を示す石碑のほかに、鹿ヶ松の逸話や石臼のモニュメントがありました。鹿ヶ松伝説は、【平成24年7月31日(火):第471号】で紹介した「徳川家康渡船之所」での話とどちらが本当でしょうか?

整備された北野取入口 北野用水取入口竣工記念碑
 鹿ヶ松伝説(長瀬八幡宮社伝より)
 永禄3(1560)年5月21日、桶狭間の合戦に敗れた松平元康(当時19歳の徳川家康公)は、織田軍の追跡を逃れこの地まで来たが、矢作川が前日の飴で増水し、渡ることができずにいた。
 その時、長瀬八幡宮の森から鹿が出て、松の大木の陰から矢作川を大門の郷へと渡った。家臣の石川伯耆守数正がこれを見て「八幡大菩薩の化身である。浅瀬を知る鹿に続け。」と主従18騎で川を渡り、無事に大樹寺に入ることができた。
 後に徳川幕府は、矢作川堤防のこの地に松を植えた。以来、この松は「鹿ヶ松」とよばれるようになったという。

高さ:12.9m 幹周:3.9m 東西枝先:23.4m
昭和28(1953)年3月3日 松喰虫におかされ伐採されました。

   (右の写真とともに、モニュメントの説明看板より)
昔、ここから約100m上流に北野用水の水源があった頃、車屋という屋形があり、水車を利用した粉ひきが行われておりました。このモニュメントは、その時の粉ひきに使用していた石臼です。
車屋には管理人がおられました。その下流は、選択場として住民から親しまれ、井戸端会議の場となっておりました。    (モニュメントにある説明石版より)
国営新矢作川用水農業水利事業のなりたち
 矢作川の大規模な推理開発は、明治13(1880)年の明治用水の構造から始まりました。その後も、水路の補修等を県営事業などで実施してきました。
 国営事業としては、戦中、戦後の明治用水農業水利事業を始め、矢作川農業水利事業、矢作川第二農業水利事業が実施されてきました。
 そして今回、新矢作川用水農業水利事業により、愛知県の中央、矢作川中流部に位置する岡崎市他4市4町の約7,000ヘクタールの田畑を対象として、用水改良(開水路からパイプラインへ)を行うほか、羽布ダム(三河湖)や頭首工の改修等を行いました。
 今回の改修により、矢作川用水はパイプライン化され上部にスペースが出来たため、より親しみをもって接していただけるように、遊歩道やせせらぎ水路を作りました。
 みなさんが今、歩いている道の下には、岡崎市はもちろん、安城市や碧南市、西尾市まで、豊かな農業用水を供給している幹線水路が流れています。
   事業主体:愛知県(西三河農林水産事務所) 管理者:岡崎市
≪平成24(2012)年12月14日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成24年12月21日(金):第614号】