武節城址  場所の地図

 豊田市稲武地区に武節城址があります。【平成23年12月26日(月):第253号】で紹介した「どんぐりの湯」のすぐ東側です。どんぐりの湯側から大きく武節城址という看板を見ることができます。城址である丘の上に次の案内文がありました。この解説を読むと、戦国時代にタイムスピリットできます。歴史の壮大さと悲惨さを改めて痛感しました。

武節城
 永正(1504〜1520)年間に田峯城主菅沼定信によって築かれ、天正18(1590)年最期の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となった。その間100年にわたって存在した城である。
 信州と美濃の国境にあり、三河の最前線基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、戦乱の時代にあって戦火に明け暮れ、小さな平山城ではあったが武田、徳川にとってたいへん気になる存在の城であった。
 いまも城址は二の丸、三の丸と階段状に下がり、本丸の上にはかつての物見台や狼煙台の跡に神社がある。周囲には十数カ所の曲輪の跡があり、500年前の空堀が当時の名残をとどめている。

武田の大軍が城下を通過
 元亀2(1571)年4月、武田信玄が本格的な三河侵攻を開始、2万5千の大軍を率いて飯田から南下し、杣路峠を越えて城下に迫り、武節城は戦わずして武田の軍門に降った。信玄はさらに足助城を落とし、新城に降り野田城を攻め、吉田城を脅かして甲州に帰った。

徳川信康の初陣
 天正元(1573)年3月、徳川家康の長男信康が14才の初陣に武節城を攻めた。そのときの模様は山岡荘八の小説「徳川家康」の中に詳しく書かれている。

武田勝頼武節城に泊まる
 天正3(1575)年5月21日、長篠合戦に敗れた武田勝頼は、田峯城主菅沼定忠に伴われて敗走、田峯城に入ろうとしたが家臣の反逆にあって果たせず、やむなく段戸山を超えて武節城にたどり着き、一泊して自分の支配地である信州に逃れた。

西側から見た武節城址 城址にある記念碑
≪平成24(2012)年9月26日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成24年10月12日(金):第544号】