野田城址  場所の地図

 新城市の南部、飯田線の野田城駅の南西1.5kmの所に「野田城址」の遺跡があります。回りの市街地とは真反対の鬱蒼とした林の中に、ポツンと「野田城址」という石碑が立っています。
 石碑のそばに、二つの説明看板がありました。

 野田城址  昭和56(1981)年3月1日 新城市教育委員会
 この城は、永正5(1508)年に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈(さだみつ)がここを居城とした。
 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18(1590)年定盈が関東へ移封されるまで続いた。

 野田の戦  新城市教育委員会
 元亀4(1573)年1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。
 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。

≪平成23(2011)年7月22日撮影≫

                  釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成24年1月12日(木):第270号】